掲載日 2014/2/8
東北の旅・その15
六日目A
福島県・会津若松市
撮影日2013/10/1〜6

最終日の六日目となる。静御前堂見学の後、郡山から高速道で会津へ行く。
8時31分 郡山IC
8時35分 磐越道ジャンクション
9時ごろ 磐梯山PAにて 休憩
9時11分 会津若松IC

会津若松市の地図

田村山古墳
市指定史跡
会津若松市北会津町田村山字塚越
撮影日
2013/10/6

田んぼの中に残っている。 9時20分 着。
説明板があるが、大きさは書かれていない。田村山保存会の石碑もある。
周りが削られて形が崩れてしまっているが、大事にされていると分かる古墳だ。

 田村山古墳は 全長24.85mの帆立貝式前方後円墳
   後円部径17.4m・高さ2.15m
  3世紀末か4世紀の築造か?。
  昭和3年3月に村人によって発掘され、内行花文鏡や玉類、直刀などが出土している。
  鏡は、中国製で3世紀末のものと推定されていて、県重要文化財(考古資料)となっている。
  正式な調査はされていない。
  古墳名は、古事記の四道将軍・坂上田村麻呂に由来する。

墳丘自体は、形も崩れていて、小さなものだが、出土した鏡が古いものだったので史跡として残されたのだろう。

昭和3年の発掘で出土した鏡は、鉄瓶の蓋と思われて、割られてしまったとか・・・・もったいない・・・・・

会津大塚山古墳
国指定史跡
一箕(イッキ)古墳群
会津若松市一箕町八幡
撮影日
2013/10/6

会津で一番有名な古墳。
墳裾東側まで、車で上がれる。まわりには現代の墓地がある。


会津大塚山古墳上がり口


階段をあがると左側に、後円部とくびれ部の張り出し部がある
右側に前方部、その右に2号墳。


会津大塚山古墳は 全長約114mの前方後円墳
 後円部径70m・高さ13m 前方部高さ6m


会津大塚山古墳 実測図
  (説明板から)



 墳丘は前方部が2段、後円部が2段又は3段に築かれている。
 東側くびれ部に張り出し部がある。
 葺石や埴輪は確認されていない。
 後円部墳頂に2基の割竹形木棺の痕跡があり、
   武器(剣・銅鏃など)、鏡、玉(勾玉・管玉など)、装飾品、鉄製農工具など計379点が出土。
   とくに、南側の棺から出土した環頭大刀と日本製の三角縁神獣鏡は
 畿内大和朝廷と深い関係を持つものだと注目されている。
 4世紀末の築造と推定されている。

 出土した宝物は国の重要文化財に指定され、福島県立博物館に展示されている。
出土品リスト
南棺 倣製三角縁唐草紋帯二神二獣鏡、変形神獣鏡、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、
琥珀製算盤玉、ガラス製小玉、竹櫛、鉄製三葉環頭大刀、鉄剣、轍小刀、銅鏃、
鉄鏃、直弧紋漆塗靫、鉄斧、槍鉋、鉄刀子、棒状鉄器、砥石、石臼、台石、丹
北棺 捩文鏡、碧玉製管玉、紡錘車形碧玉製品、鉄製直刀、鉄剣、銅鏃、鉄鏃、靫、
鉄斧、鉄製刀子
1964(昭和39)年の調査で、後円部に2つの木棺が確認され、多数の副葬品が出土した。
1988(昭和53)年の調査で、古墳の中腹に帯状テラスが確認された。

前方部から後円部を見る

後円部から前方部を見る

後円部上にある、石仏古墳(円墳?)の石棺蓋

前方部上にある土壇



会津大塚山2号墳

会津大塚山古墳前方部の北にある円墳。
陪塚と考えられている。








会津大塚山古墳の墳裾あたりから東を望む
  (霞んでいるのが残念)

右手にある飯盛山の頂上に「飯盛山古墳」
飯盛山の北には「堂ヶ作山古墳」がある。
会津大塚山古墳より先に築造されたと考えられている。


会津若松市一箕地区には、古墳時代前期の前方後円墳が3基確認されている。

会津大塚山古墳(全長114m)・飯盛山古墳(全長60m)・堂ヶ作山古墳(全長84m)の3基で
 一箕(イッキ)古墳群と呼ばれている。

一箕とは、箕に一つずつ土を運んでつくったという言い伝えからきた地名。

飯盛山古墳・堂ヶ作古墳は、なかなか見学できない。
飯盛山
白虎隊墓地
会津若松市一箕町八幡
撮影日
2013/10/6

飯盛山の頂上には飯盛山古墳があるが、頂上にはなかなか行けない。
一般的には、飯盛山は白虎隊の墓があるところとして有名。

 慶応4年(1868)8月23日、年齢が16〜17才で構成された士中二番隊の白虎隊士は、  
  猪苗代から十六橋を越えて進撃した西軍と戸の口原で交戦するも、
      敵の軍事力に圧倒されて退き、戸の口洞門をくぐってこの地に至った。
 炎上する城下を前に、玉砕か帰城かを巡って、激論を戦わした。敵陣突入を提案するものもいれば、
    鶴ヶ城が簡単に落城するはずがないとして帰城を主張する者もいた。
 しかし、最終的に「誤って敵に捕らえられ屈辱を受けるような事があれば、
    主君に対して申訳なく、祖先に対しても申訳ない。
 この場は潔く自刃し、武士の本分を明らかにするべき」との決断に、はじめて全員が同意し、
    一同列座し南鶴ヶ城に向かって訣別の意を表し、全員が自刃した。
 後、一名が甦生。
 なお、鶴ヶ城開城はその一ヶ月後である。   (説明板から)


飯盛山へ向う道の両側には、    
             土産物屋が並ぶ

正面の飯盛山の頂上には飯盛山古墳がある・・・。

白虎隊墓への上り口
スロープコンベア(有料250円)もある。

白虎隊の墓その1
明治元年(1868)戊辰戦争で飯盛山で自刃した19士の墓

白虎隊の墓その2
会津各地で戦い、亡くなった31名の墓

戸ノ口堰洞穴
白虎隊士が潜った洞穴。

さざえ堂

地蔵堂

厳島神社



飯盛山から見る会津若松城


中央鉄塔の後


自刃した20名のなかで1人だけ生き残った 飯沼貞吉さん によって、
       白虎隊の忠義と悲運の物語は広く人々に知られるところとなったという。

雄国山麓古墳群(喜多方市塩川町)へつづく・・・・


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