更新日 2014/12/24

群馬県・2014
その2  甘楽町・高崎市①
 2014/11/21~24

富岡市の一の宮古墳群と塚原古墳群を見学後、甘楽町へ

富岡市・甘楽町の地図

笹森古墳
県指定史跡

甘楽町大字福島字笹森
 (撮影日2014/11/21)

10時 着
笹森古墳の全域が、笹森稲荷神社の境内になっている。
とても立派な神社だ。説明板あり。神社駐車場がある。

笹森古墳は 雄川の右岸段丘に築かれた 全長約100mの前方後円墳
 後円部 径60m・高さ8m余   前方部 幅65m・高さ9m余 で  前方部の方が大きい
 前方部が西にある。2段築成
 墳丘の南側は社殿の建設によって変形しているが、北側には二重の堀が残る。
 葺石あり 埴輪あり
 後円部の中段には、南側に
両袖型横穴式石室の入口があり鳥居が建っている。
  石室は全長16mの両袖形  玄室 長さ7.2m・幅2.4m・高さ約2.5m
  羨道は狭いが、奥行きは県下屈指の長さでこの地方の凝灰岩質砂岩の自然石で造られている。
 
6世紀後半の築造と推定されている。
 副葬品として伝えられる五鈴鏡は、現在神社の社宝となっている。

 ここから北東400mに天王塚古墳(甘楽町指定史跡)があるが、これは笹森古墳と対照的で、
   後円部は大きいが、前方部は未発達の古式古墳(5世紀前半築造)である。        (説明板から)



北東側社殿裏側)から見た
    笹森古墳


左・後円部 右奥前方部



くびれ部に社殿が建つ
幅の広い周壕の跡が残る

後円部上り口
魔除け開運の神 金刀比羅宮という案内標識がある

後円部
石室はこの下の段に開口している。

後円部にある石室開口部 小さな鳥居がある

石室内部  残念ながらよく見えない

 
くびれ部から前方部を見る

社殿は墳丘上にある。

陰影がはっきりしすぎていて、良い写真が撮れない・・・・・。

天王塚古墳
町指定史跡

甘楽町大字福島
 (撮影日2014/11/21)

きれいな公園になっていて、駐車場完備・トイレ完備。
説明板あり。

 天王塚古墳は別名神明塚とも呼ばれ、鏑川流域に分布する前方後円墳の中では最も古いもの

天王塚古墳実測図 (説明板から)


全長76mの前方後円墳
 後円部径50m・同高さ10m
 前方部幅39m・同高さ7.5m 後円部が大きい
 前方部が西にある。
葺石あり 埴輪なし
周堀はあったと考えられている。(水をたたえていたかは不明)
埋葬施設は、未調査のため詳細不明だが、
  墳丘の形態から
    竪穴式石室が後円部にあると考えられている。
5世紀初めの築造と推定されている。


天王塚古墳

左(西側)・前方部  右・後円部


手前は、公園広場となっている。

後円部

後円部から前方部を見る

甘楽町から、高崎市の旧吉井町の遺跡見学へ

高崎市南西部の地図

多胡薬師塚古墳
市指定史跡

高崎市吉井川
 (撮影日2014/11/21)

HP「古墳とかアレ」さんの彼岸花の多胡薬師塚古墳にあこがれて、見学に行く。
当然のことながら、彼岸花の時期は済んでいる。 10時50分  着。

昭和10年に行われた県下一斉古墳調査では「吉井町1号墳」として「上毛古墳綜覧」に記載されている。

 多胡薬師塚古墳は 未調査だが、現状径25m・高さ3.5mの円墳 
  葺石あり 埴輪なし

横穴式石室実測図 (説明板から)
 南に開口した
両袖形横穴式石室は、全長4.95m
   玄室の長さ2.1m・奥壁幅2.15m・高さ1.7m
   羨道部長さ2.3m・幅1.1m。高さ1.3m
  石材は多胡碑と同じ牛伏砂岩(多胡石)を使用している。
  石材加工は精巧な切石で、
    一部切組積み手法を取り入れた高度なもの
   精巧な羨門・玄門がある。
 
7世紀後半の築造と推定されている。


  昭和27年に横穴式石室の実測調査

多胡薬師塚古墳 墳丘

石室開口部

石の組み合わせ方が、魅力的!!

石室内部から外を見る

石室内部・奥壁の全体を撮るのを忘れた・・・・・・。

多胡碑
特別史跡

高崎市吉井町
 (撮影日2014/11/21)

多胡碑のある所は、石碑の里公園と名付けられ、多胡碑記念館もある。移築古墳もある。
説明板も、もちろんあり。  11時10分  着


石碑の里公園 案内図

  (現地案内板から)


多胡碑
栃木県にある
那須国造碑、宮城県にある多賀城碑とともに
日本三碑と呼ばれている。
また高崎市の
山ノ上碑、金井沢碑とともに
上野(コウズケ)三碑とも呼ばれている


この後、山ノ上碑、金井沢碑も見学する。今回は上野三碑を見学することも、目的のひとつだ。



多胡碑

碑の高さは1.26m 幅と厚さは0.6m
吉井町南部に産出する
  軟質の牛伏砂岩(通称多胡石)で造られている。


土地の人は多胡碑を
  「ひつじさま」と呼び信仰の対象としてまつり、
   守ってきた。
また文面に見える「羊」にちなんだ「羊大夫」の伝説は、
   古くから語り継がれて親しまれている。


多胡碑の碑文  (説明板から)

弁官符上野国片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊


朝廷の弁官局から命令があった。
上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から
三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。
郡の名は多胡郡としなさい。
和銅四(711)年三月九日甲寅。
左中弁正五位下多治比真人による宣旨である。
太政官の二品穂積親王、
  左太臣正二位石上(麻呂)尊、右太臣二位藤原(不比等)尊。

 その書体は楷書体で中国の六朝風を遺すといわれており、古くより多くの書家に愛好され、
 
6行80文字の彫りも味わいあるものとして評価されている。
 碑文は、和銅4(711)年の多胡郡の設置について述べたもので、
  ほぼ同様の内容の記事が正史の「続日本紀」和銅4年3月4日の条にも見えている。
 「続日本紀」の記事によって碑文を補うと、
  分割された各郡の里(郷)名がそれぞれ
  片岡郡山部(山名)・縁野郡武美・甘良(甘楽)郡織裳(折茂)・韓級(辛科)・矢田・大家であることが分かる。
  多胡碑は当時のこの地域のありさまを今日に伝える、全国的にもまれな石碑である。
  多胡碑の保護の面では、
  明治15(1882)年に初代の群馬県令だった楫取素彦(かとりもとひこ)(吉田松陰の義弟)が
   内務省にかけあって木柵等の修理をおこなっている。
  さらに楫取は地元の有志に、寄付を募って
   多胡碑のある稲荷明神社周辺の土地を買収して整備するよう助言し、自らも寄付をおこなった。
  こうした人々の努力によって、多胡碑が保護され、現在もその姿をみることができる。
(説明板・高崎市HPから)


昭和初期の多胡碑  (説明板から)

現在の多胡碑

多胡碑は、政治に関する顕彰碑だから、昔からの中心地に立てられているのだろう。

東北旅行で 多賀城碑を見学した。日本三碑は、もうひとつ、栃木県にある那須国造碑だ。

片山1号墳・南高原1号古墳

高崎市吉井町
 (撮影日2014/11/21)

多胡碑のある石碑の里公園には、2基の古墳が移築されている。


左手前 片山1号墳
  右奥・南高原1号古墳




南高原1号古墳 (上毛古墳綜覧多胡村115号)  高崎市吉井町神保259、260、261番地より移築
 径17mの円墳 低い基壇を有する2段築成
 周堀あり 葺石あり
 南側に入口をもつ
横穴式石室は全長8m
  石材は地元の牛伏砂岩
 
7世紀代の築造と推定されている。

墳丘全体

横穴式石室開口部

石室内部

石室の背後は葺石が復元されている


片山1号墳 (上毛古墳綜覧吉井町65号)   高崎市吉井町片山117番地から粘土槨を移築
 径32.6mの円墳
 周堀を含めると径50mとなる。
 墳頂中心から南に寄った位置から、長さ8.8m以上の
粘土槨を確認。
 小型倣製の内行花文鏡や竪櫛(約40点)、鉄剣、鉄鏃、鉄製斧、石製模造品(斧・刀子・臼玉)、管玉などが出土
 
4世紀末~5世紀初頭の築造と推定されている。

粘土槨を埋めてあるのか?

南高原1号古墳から見た片山1号墳

高崎市をいったん離れて、藤岡市へ。  喜蔵塚古墳へつづく

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