さきたま古墳群2

さたきたま古墳群その2  見学日 2006/4/16
加筆 2013/6/2

埼玉県行田市の地図y

さきたま古墳群配置図


黄緑色で示したところは
    さきたま風土記の丘として整備されている部分。

周堀は推定復元図して示してある。
2013年5月、松任図書館で「シリーズ遺跡を学ぶ・鉄剣25文字の謎に迫る ・埼玉古墳群」という本をみつけた。
それを元に、このページに加筆します。 (2013月6月)

焼きそばの屋台から、古墳群で一番小さな愛宕山古墳が見えている。

 愛宕山古墳
さきたま古墳群

埼玉県行田市
 (撮影日2006/4/16)



愛宕山古墳の復元図

全長53mの前方後円墳

後円部径30.0m・高さ3.4m  前方部幅41.5m・高さ3.3m
長方形の二重周壕がある。
造出と張り出しはないと考えられている。


堀の一部が発掘調査され、円筒埴輪、人物、太刀なとの埴輪が出土。
男子の人物埴輪には、髪の結い方が良くわかるものや、冑をかぶった武人がある。
6世紀前半の築造と推定されている。



駐車場ごしに見る愛宕山古墳



左側が後円部

少し遅い花見ができた。



愛宕山の横にある茶店の庭には花桃も満開

このあたりは私有地らしく、お寺もある。

 二子山古墳
さきたま古墳群

埼玉県行田市
 (撮影日2006/4/16)



二子山古墳の復元図

全長138mの前方後円墳

後円部直径70m・高さ11.3m  前方部幅90m・高さ14.9m
埼玉古墳群中最大の大きさ。
不正長方形の二重周壕かある。
2段築成
北西側くびれ部あたりに造出があり、幅20m・突出部9m
中堤にある張り出し部は基部幅31m・先端幅43m・突出幅28mの台形。
円筒埴輪が出土(1mをこえる大型のもの
5世紀末か6世紀前半の築造




二子山古墳全景
さきたま古墳群のほぼ中心にあり、
 群中最大の規模(武蔵国でも最大)
内堀には水がたたえられている


前方部が発達した古墳。




稲荷山から見た二子山古墳


丸墓山古墳からは木立がじゃまで
     写真が取れなかった。
墳丘の発掘調査は行われていない。

 丸墓山古墳
さきたま古墳群

埼玉県行田市
 (撮影日2006/4/16)




丸墓山古墳の復元図

直径105m・高さ18.9mの円墳

6世紀前半の築造と推定されている。

周壕は幅約37mでそれを含めると径179mの墓域となる。


墳丘は発掘調査されていないが、葺石・円筒埴輪・人物埴輪が確認されている。
葺石はわずかしか出土していない。



丸墓山古墳


わが国最大の円墳


手前にある丸い植え込みは小円墳のあと


一部復元された周堀

今は半分くらいしかないが、元は一周していたと考えられている。

天正18年(1590)に石田三成が、
      この古墳の南北に堤を築き、忍城を水攻めにした。
丸墓山古墳から南にまっすぐにのびている道路は
      この堤の名残である。


遠くからも見え、古墳群では一番立派な古墳だと思う。

 小円墳群
さきたま古墳群

埼玉県行田市
 (撮影日2006/4/16)

現在残っている大型古墳のほかにも、40基ほどの小さい円墳が確認されている。

右側の丸い三つの植え込みが小円墳の跡

墳丘は残っていない。
丸墓山の墳頂から望む。

手前は丸墓山の周堀。
奥に見えるのは将軍山古墳。
左側は、稲荷山古墳。
梅塚古墳(2号墳)では、人物埴輪や土器が出土して、5世紀末の築造と推定されている。
6号墳では、水鳥型の埴輪が出土した。

 稲荷山古墳
さきたま古墳群

埼玉県行田市
 (撮影日2006/4/16)




稲荷山古墳の復元図


全長120mの前方後円墳

後円部径62m・高さ11.7m  前方部幅74m・高さ10.7m。
二重の堀がめぐる。
西側くびれ部あたりと中堤に造出がある。
5世紀後半から末の築造と推定されている。


昭和43年、整備保存のための発掘調査で、未盗掘の竪穴式石室が発見され、たくさんの豪華な副葬品が出土した。
中では、さびで覆われた鉄剣に、115文字の金文字が発見され、そこには当時の歴史を証明するようなことが描かれていた。
この鉄剣は金錯銘鉄剣と名づけられ、ほかの出土品とともに国宝に指定された。




丸墓山古墳墳頂から見る稲荷山古墳


手前は丸墓山古墳の周堀。
昭和12年に前方部が土取りされて後円部だけしかなかったが、大発見があり復元された。
古墳上には遊歩道がある。


稲荷山古墳の造出部


中堤には、張り出し部がある。


前方部から後円部を望む




国宝の金錯銘鉄剣が発見された埋葬施設
礫槨(船形に掘った竪穴に
   川原石を貼り付けて並べた上に棺を置いたもの)といわれるもの。

当時どのように副葬品を並べたかがわかるほどよく残っていた。

稲荷神社の下に保存されていたので奇跡的に保存され、
   すばらしい副葬品が出土した。



稲荷山古墳のもうひとつの埋葬施設


粘土槨(素掘りの竪穴で粘土を敷いた上に棺を置いたもの)といわれるもの

こちらはすでに荒らされてわずかな遺物が残っていただけだった。



二つの埋葬施設は複製で、本物は地中に保存されている。

稲荷山古墳の豪華な出土品
銅鏡 帯金具 勾玉 銀環
馬具(轡 鞍金具 辻金具 鐙 三環鈴 鈴杏葉)
武器(太刀 金錯銘鉄剣 挂甲 鉄鏃 鉄矛)
工具(鉄斧 鉄鉗 鉋 砥石など)
埴輪(形象埴輪 円筒埴輪)は中堤の造り出し部からまとまって出土した。

金錯銘鉄剣のこと
 風土記の丘建設に当たり、古墳をひとつだけ調査することになった。
 そのとき前方部がすでに無く、崖面が崩れそうだった稲荷山古墳が選ばれた。
 昭和43年
、発掘調査。盗掘を受けていると思っていた埋葬施設のうち1つは未盗掘。豊富な副葬品が出土した。
 発掘して10年後、出土した鉄剣が傷んできたので、保存処理をすることになった。
鉄剣のさびを落としていたとき、金色に光る部分があるのでX線にかけてみたところ、文字が発見された。
 これが「金錯銘鉄剣」だ。

 金錯銘鉄剣は刀身73.5cmで、表に57文字、裏に58文字が刻まれている。
 「オワケの臣がワカタケル大王の杖刀人としてシキの宮につかえてた。辛亥年7月」と書いてある。
 ワカタケル大王が雄略天皇、辛亥年が471年とする説が有力。
 5世紀後半には大和政権の勢力が、西は肥後から東は武蔵まで及んでいたことが推定されるにいたった。

特に立派にも見えない古墳で大発見があったというのは、不思議な気がする。
二子山古墳などが、未盗掘だったらこれ以上の大発見があるかもしれない。

 将軍山古墳
さきたま古墳群

埼玉県行田市
 (撮影日2006/4/16)




全長90mの前方後円墳

後円部径39m・高さ不明  前方部幅68m・高さ10.14m
台形の二重周壕がある。濠を含めると長さ180m
北西側のくびれ部に造出がある。幅13m・奥行き13m
 この周辺から須恵器や円筒埴輪・形象埴輪(盾、ゆぎ)などがまとまって出土
張り出しは墳丘の左側にあり、
  墳丘側15m・外側26m・突出部22mの台形で周壕はめぐることなく、
   そのまま外部につながる。
張り出しの南側に陸橋があり、
   その周辺から盾持ち人・家・馬の形象埴輪と土師器などが出土。

2段築成。
後円部に、玄室長さ3.2m・幅2m 羨道幅1mの片袖式横穴式石室がある。
前方部に、木棺(長さ1.8m幅0.5m)直葬の墓壙(東西2.3m・南北1.5m・深さ0.9m)か確認されて、ガラス玉168が出土した。

6世紀後半の築造と推定されている。

1894年(明治27)、発掘されて、後円部の横穴式石室から豪華な副葬品が出土した。
が、その後墳丘の東側は土取りされ、崩壊の危機にあった。というより崩壊していた。
平成9年、復元整備され、将軍山古墳展示館が建つ。


丸墓山古墳墳頂から望む将軍山古墳

前方部斜面の黄色く見えるところは菜の花満開。

こちらから見えない側の後円部に将軍山古墳展示館がある。

 将軍山古墳展示館

埼玉県行田市
 (撮影日2006/4/16)

東側の墳丘が失われた部分に、
   将軍山古墳の横穴式石室を覆うように将軍山古墳展示館が建ち、石室をそのまま公開している。

床の上には、副葬品が埋葬された当時のままの姿に復元展示されている。
二人以上が埋葬されたと考えられている。



将軍山古墳後円部の横穴式石室模型

石室は、床の部分しか残っていなかった。

破片だが、
装身具(耳環・ガラス玉・銀製空玉)、
武器・武具(鉄鏃・環頭太刀など)、
馬具、須恵器などが出土した。


1894年の発掘時には、
装身具(金銅製耳環2・金製勾玉1・金製平玉35・ガラス小玉199以上・鏡)
武器・武具(太刀5・直刀数本・三輪玉5・鉄鉾・甲など)
馬具、工具(鉄斧1)、銅碗などが出土していて、資料館などに保管されているが、
金の勾玉や平玉は所在不明となっている。

古墳の復元方法としては面白い。
将軍山古墳はかなり破壊されていたのでこんなことができたのだろう。

埼玉県行田市の地図y

時間は午後2時。さきたま古墳群の北にも面白い古墳があるという。

関東の旅さきたま周辺につづく


埼玉の遺跡トップへ

トップページ