東京都の古墳へ
第2章・その2
2010/5/15
〜5/18

東急大井町線尾山台駅から自由ヶ丘で、東横線に乗り換え渋谷へ
渋谷から、JR埼京線で十条駅へ
演芸場の前を通って十条富士塚へ

 十条富士塚

東京都北区中十条2-14-18
 (撮影日2010/5/17)

北区の荒川小学校のそばにある。
古墳としての指定ではないが
江戸時代以来、富士信仰にもとづく祭儀を行ってきた場として
北区指定有形民俗文化財となっている。



十条富士塚正面
30基以上の石造物がある。




十条富士塚墳丘


古墳と推定される塚に実際の富士山を模すように溶岩を配している。
十条富士塚
径18m・高さ5mの円墳
未調査で詳細は不明


十条富士塚墳頂

塚の頂上を平坦に削って富士山の御神体の分霊を祀る石祠を置く。




     東京都北区の地図y

富士塚から徒歩で赤羽台第3号古墳石室へ

 赤羽台第3号古墳石室

東京都北区十条台1丁目中央公園内
 (撮影日2010/5/17)

赤羽台第3号古墳石室は、陸上自衛隊の南にある中央公園内の文化センターの東横に移築保存されている。


赤羽台第3号古墳石室 覆い屋

発見された場所は北区赤羽台4丁目で現在、星美学園の敷地内にあり、
その一角は赤羽台遺跡として整備保存され、説明板も立てられているという。



昭和57年、東北新幹線工事にともなう発掘調査で発見、15基の古墳、横穴墓群、多数の竪穴住居跡が見つかっている。
古墳は集落の西側に築かれていて、墳丘は削平されていたが、
埋葬施設が確認されたもの5基、周堀のみ確認されたもの10基の合計15基の円墳の群集墳が確認された。
これらの古墳はいずれも横穴式石室で
径12m前後の円墳と推定されている3号墳の石室が保存された。


赤羽台第3号古墳石室内部

横穴式石室は、全長4.1m
石材は凝灰質砂岩で千葉県布津市付近の海岸の自然石
床面には全面に小石(一部カキ殻)が敷かれている。
石室内から
人骨やガラス玉・碧玉製管玉・耳飾などの装身具、直刀・鉄鏃などの武器類
が出土した。


 四本木稲荷社古墳

東京都北区滝野川3丁目
 (撮影日2010/5/17)

古墳と聞かなければわからない。


四本木稲荷社古墳

径29m・高さ1mの円墳


北区の観光HPには
「十条自衛隊駐屯地の東側に、稲荷公園がある。 四本木稲荷社はかつてはそこにあったものだ。
 日露戦争のおりに、陸軍の十条兵器製造所があり、工場が拡大されたときにこの地にあった古墳も壊された。
 しばらくして火薬の爆発などの事故が何度か起き、死傷者がでた。
 古墳を壊したせいではないか、ということになり、工場の人たちが社殿を造り、工場の守り神とした。
 ここには4本の大木があったので四本木(よもとぎ)稲荷大明神と名付けられた。
 戦後工場が解散し、現在の地に移された。」
とある。
同じ滝野川3丁目地内には既に消滅した滝野川古墳の存在が知られており、古墳群を形成していたと考えられている。

写真を撮っていたら、おじさんが「何か興味がおありですか?」
と話しかけてきて、面白いものがあるといって
神社の一角にある忠魂碑の説明をしてくれた。



兵器工場で亡くなった人達のためにつくられた忠魂碑は
石臼でつくられている。


確かに丸い石を2つに割っていて一つを土台にして一つを石碑としている。ほぞ穴もある。

この石臼はここにあった兵器工場で使われたもので、
火薬の材料をすりつぶすときに利用されていたという。
直径2mくらいの大きな石臼だ。

鉄を精製するときにできる鉄宰でつくられたレンガが縁石として置かれているのも見せてくれた。

 飛鳥山公園

東京都北区西ヶ原2丁目
  (撮影日2010/5/17)

飛鳥山は8代将軍徳川吉宗が桜を植樹させて庶民に開放してから花見の名所として有名になった。
飛鳥山の案内図には「古墳」と書かれた場所がある。


飛鳥山1号墳

径31mの円墳
平成元年の調査で、幅3.8mの周溝があると確認された。
平成5年の調査で、切石を使用した胴張型横穴式石室が確認された。
石室内から太刀の破片・鉄鏃・耳環・管玉・切子玉・ガラス小玉が出土
他にも古墳の周溝が確認されていて古墳群があったと考えられている。

公園の南側は旧渋沢庭園だ。


渋沢資料館・青淵文庫(大正14年建築)の外壁
渋沢栄一の80才のお祝いに門下生から寄贈された建物。
外壁に月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、
列柱をもつ中央開口部には色付けした陶板が用いられている。




晩香慮(バンコロー) 内部 応接室

渋沢栄一の喜寿を祝い、清水組が寄贈した建物。
窓ガラス越しに写す。

晩香慮とは「バンガロー」をイメージして名付けられた。

当時の経済界の大物たちが談笑する姿が見えるようだ!
上の二つの建物は定期的に公開されている。


旧渋沢庭園内古墳
庭園の築山となっていた。
古墳と確定しているわけではないみたい。


 西ヶ原一里塚
国史跡

東京都北区西ヶ原2丁目
 (撮影日2010/5/17)

七社神社のそばにある。


西ヶ原一里塚
1604年(慶長9)江戸幕府は江戸日本橋を基点として全国の主要街道に一里塚を築き、
街道の街道の道程を示す目安とすることを命じた。
西ヶ原一里塚は本郷追分の次の一里塚



道路の両側にこの一里塚がある。
もう一つは今も中央分離帯の所に残っているが写真は撮り忘れてしまった。

 甲冑塚古墳
平塚神社

東京都北区上中里1丁目
 (撮影日2010/5/17)





平塚神社 
源義家を祀る






甲冑塚古墳入口
径40m・高さ3.5mの円墳
源義家が鎧を埋めたという伝承がある。
神社の背後にある。
墳丘は立ち入り禁止だが
運がいいと入れるらしい。


平塚神社のあたりは浅見光彦さんの地元なので「平塚亭」などもじっくり見学したかったが、
足の裏が痛くなってきて、それどころではなくなってきた。

文京区の地図y

西ヶ原駅から東京メトロ南北線で本駒込駅へ  

 白山神社古墳

東京都文京区白山5丁目
  (撮影日2010/5/17)

東洋大のすぐ南にある。



白山神社入口
この白山神社も富士信仰の場所となっていたという。
        (富士神社の説明板から)



白山神社古墳 円墳
墳丘は全体的にアジサイや低木で覆われている。
墳頂には小祠があり、登り口の鳥居の束額には「浅間神社」とある。
私達が行った時間は水遣りをしていた。
白山神社参道のそばにメトロ都営三田線の白山駅がある。
さっそく乗車。
足が痛いのでとてもうれしい。

春日で、都営大江戸線に乗り換え新宿へ  
新宿からJRで渋谷へ
いっさい渋谷東急店で夕食を済ませ    

渋谷からバスで大橋へ  
オリンピックイン渋谷で2泊目を迎える。

第4日目 旅行最終日

朝食前、8時にホテルを出て、徒歩で猿楽塚へ

猿楽塚の南、上目黒1丁目のマンションの片隅に「目黒元富士跡」の説明板発見!


目黒元富士跡 

1812年
富士信仰のために作られた富士は高さ12mもあった。
1819年中目黒2丁目に新しく富士がつくられ、それを新富士と呼ぶようになってから
、ここの富士は元富士と言われるようになった。

元富士は1878年(明治11)に取り壊された。


旧朝倉家住宅
東京府議会議長を務めた朝倉虎治郎によって1919年に建てられた。
戦後の困難期に社団法人中央馬事会へ売却された旧朝倉家住宅は、
農林水産省に譲渡されるなどの歴史を経て、
昭和三十九年から現在の内閣府の前身・経済企画庁の渋谷会議所として
近年まで利用されてきた。

 猿楽塚古墳

東京都渋谷区猿楽町
 (撮影日2010/5/18)

猿楽塚のあるヒルサイドテラスは元々は朝倉家が所有していた土地。


猿楽塚(北塚)
ヒルサイドテラスの前庭の中に取り込まれている。
径20m・高さ5mの円墳
墳裾に鳥居がある。

掃除をしている方がいる。






猿楽塚(北塚)の墳頂にある祠






建物の間からかろうじて見える
   猿楽塚(南塚)


径]12m・高さ3.8mの円墳

猿楽塚近くの
フレッシュバーガー中目黒にて朝食   

自宅に帰る前にもう一度初孫の顔を見に行く。

その後
渋谷からJRで駒込へ、昨日見れなかった富士神社へ
その前に富士神社近くのそばやで冷やし中華の昼食  

猿楽塚周辺の地図y

 富士神社古墳

東京都文京区本駒込5丁目
 (撮影日2010/5/18)

社伝によれば延文年間(1356〜61)にはこの場所は富士塚と呼び大きな塚があった。
この塚は前方後円墳といわれる。
富士神社の祭神はコノハナサクヤヒメで氏子を持たず富士講組織で成り立っていた。
駒込のお富士さんといわれていた。


富士神社古墳全景
残念ながら樹木が多すぎてよく見えない。






富士講となっていた十条富士塚と同じような石が置かれている。







富士神社古墳 墳丘への階段
全長45m高さ5mの前方後円墳






富士神社古墳 前方部から後円部を見る。

後円部に社殿が建つ。








富士神社古墳後円部から前方部をみる。




文京区の地図y

富士神社が今回最後の見学地。

駒込から東京へ行き、3時12分発、越後湯沢経由の電車で 金沢 19時18分着
夕食を済ませ
午後9時ごろ自宅着。

東京の遺跡の旅第2章 おわり

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