新潟県上越市の遺跡
と富山県入善町・じょうべのま
その1・上越編
撮影日2011/6/18

高速料金上限1000円が終わる前にもう一度、ドライブに・・・と
急に思い立って、初めての新潟県へ。
自宅を出発したのが、午前10時ごろだったので、上越ICに着いたのはお昼頃。
ICそばのイオン内のサイゼリヤで食事の後、水科古墳群へ。

上越市の地図

水科古墳群
国史跡
上越市三和区水科
撮影日2011/6/18

田んぼの中にポコンポコンと古墳が見える。この後見学する宮口古墳群も見える。
1976年国史跡指定


水科古墳群遠景 北から

径10〜15mの34基の円墳のみの群集墳
7世紀の築造と推定されている。


水科古墳群配置図 (古墳辞典から)

右側に道路がある。

青い枠の中が史跡公園となる。

飯田川扇状地の右岸扇頂部、標高50m付近に分布する後期古墳群。

昭和初年頃発見され、1975年に発掘調査。
その結果32基の古墳が確認され、1979年の調査で新たに2基が発見された。

墳丘の上半部は既に開田時に削平されて旧形状をとどめていない。
埴輪はない

石室は河原石を積み上げて側壁を作る無袖型の横穴式石室で、
最大規模のものは21号墳で、全長8.6メートル、幅90センチ、玄室内は石敷である。
石室全長1 m前後の超小形石室(第4 、20 、23 、28 、30 、33 号墳)などもある。
小さいものは子ども用か成人の二次葬用の可能性がある。
副葬品は、直刀、刀子、金環、滑石製小玉などが石室内から出土している。

直刀・刀子・金環・銀環・滑石製勾玉・滑石製小玉・水晶製切子玉
・琥珀製棗玉・ガラス小玉と須恵器の甕・提瓶・椀・蓋などが出土。
人骨には火葬の跡がある。
(参考:新潟県立歴史博物館HP・古墳辞典・埋文にいがたHPなど)




水科古墳群入口


史跡保存のために全体に30cmの土を盛り墳丘・石室が復元されている。

発掘調査が完了しているものは墳丘を高くし、
調査が古墳の確認だけのものは低くして表示してある。
石室が見られるのは、11号墳・21号墳・30号墳(拡大復元)
説明板があるのは、11号墳・14号墳・19号墳・21号墳・30号墳


左 2号墳 右 3号墳









手前4号墳

 径1m位の小さな円墳

奥は左端から
2号墳・3号墳・9号墳・11号墳




左 13号墳 右7号墳
後に見えるのは
5・6・32・34号墳のあたり。





左 19号墳 右 14号墳

19号墳では羨道入口の左右1mの外脇から
墳丘域を示す周溝がある。

11号墳

11号墳

径12mの円墳
幅4m・深さ0.9mの濠をめぐらしている。


11号墳石室入口

横穴式石室は長さ5m・幅0.8mで
奥壁は高さ0.9mの大きな石を使っている。
入口は多くの河原石でふさがれていた。




11号墳石室内部

玄室の床には0.2mほどの扁平な石が敷き詰められている。

玄室内部から
刀子、金環、勾玉、切子玉、棗玉、琥珀玉・ガラス小玉など
羨門前庭部から提瓶、坩、蓋、
墳丘裾部から
つぼ・さら・ふたなどのかけらが入った大型の水筒形の須恵器
が出土した。


21号墳

21号墳

古墳群の東北端に位置
径20m・高さ推定5mの円墳

幅5m・深さ0.8mの濠がめぐる。

墳丘は45度の角度で築かれている。

21号墳 

羨道外端から外護列石状に河原石の葺石を持つが、
横穴式石室開口部の前面だけで、
              背面はめぐらさない


その外側に周溝ををめぐらしている。



21号墳石室内部

横穴式石室は長さ8.6m・幅0.8mで群中最大規模

入口は河原石を積んでふさいでいる。
玄室の床は扁平な河原石で敷き詰められている。
奥壁に直刀2振りが立て懸けられた状態で出土。
他に、
刀子、滑石製勾玉、滑石製小玉、ガラス小玉、
 金環、銀環、須恵器の台付碗
    などが出土。



14号墳

径9.5mの円墳
幅2m・深さ0.5mの濠をめぐらしている。
横穴式石室は長さ3.85m・幅0.55m
 玄室と羨道の境には石を立てて玄門とし、
       床には細長い石を置いて間仕切りとしている。
 羨道は河原石をつめてふさいでいる。

 玄室床は扁平な河原石が敷き詰められている。
 奥壁付近から焼けた骨と滑石製小玉が出土。


30号墳

石室を観察できるように大きく復元されているので
         変な形の古墳となっている。

本来は
長さ1.06m・幅0.3mの小さな横穴式石室をもつ小さな古墳。

石の積み方や床の石の敷き方はほかの古墳と同じ。

出土物はなし。


宮口古墳群
国史跡
上越市牧区宮口
撮影日2011/6/18

水科古墳群から南東に約500mのところにある。


宮口古墳群入口
大きな標柱がある。



史跡公園となっていて、園内には歴史民族資料館がある。

公園案内図はあるが、古墳群に関する説明板はない。

資料館で配置図と11号墳で出土した金銅装円頭大刀の詳細図をいただいた。


宮口古墳群配置図
(歴史民俗資料館でいただいた資料から)
数字だけの古墳は墳丘が復元されていないものと思われる。


配置図だけで細かい説明はない。



東側の山にある古墳は、虫が怖くて、見学をあきらめる。

今回見学したのは清水田地区の支群
(9号墳から24号墳の辺り)

宮口古墳群は、高田平野の東南部の飯田川扇状地の扇頂部、及びこれに接する丘陵尾根に分布する古墳群。
1976年、国史跡に指定された。
3支群、31基で構成される。7世紀の築造と推定されている。
八幡堂地区支群
  丘陵に分布する
  標高73〜85mの南側尾根に列状に並ぶ6基と西斜面にある2基
  いずれも径約10mの円墳で周溝をめぐらしている。
  2号墳の石室は全長5.4mで支群中最大で、最小のものでも全長4m。
清水田地区の支群
  丘陵西側の水田地帯にある。
  標高63〜68mに18基の古墳が分布し、水田造成時に封土を欠失している。
仏光田地区の支群
  丘陵南側の水田地帯にある。
  5基の石室が確認されている。

 1929・30年に、八幡堂4基・清水田2基が発掘された。
 1975・77年に、合計15基の古墳を発掘された。

石室の構造は、28号墳が片袖型の横穴式石室と推定され、ほかはすべて無袖型の横穴式石室で、
舌状の梱石をもって玄室と羨道を区別するのが一般的である。
玄室床面は扁平な円礫を敷く場合が多く、
石室規模は全長2.5m〜6m・幅0.6〜1m、大中小の3段階に分類される。
羨道部はいずれも径30cmの厚みのある円礫を羨道全体に詰め込んで閉塞している。
奥壁は巨礫の一枚石をもって構築し、側壁は自然礫を小口積みとしている。
大部分の古墳は石室の周囲を大小の円礫でおおった「石室外被礫」と仮称した遺構を伴っている。

副葬品には須恵器の横瓶、提瓶、長頸壷、坏、甕及び土師器の坏もあるが破片で、土器類は極めて少ない。
装身具にはガラス小玉、ガラス丸玉、切子玉、勾玉、棗玉、金環、通称アスファルト塗土玉、
武具は直刀、刀子、鐔、足金具、鞘尻、鉄鏃、馬具の引手金具、辻金具などで、
11号墳から金銅装円頭大刀が出土
   (参考:新潟県立歴史博物館HP・古墳辞典など)

宮口古墳群
手前22号墳、奥21号墳








手前13号墳 奥12号墳





宮口古墳群 左から15、14、13号墳






中央が11号墳

11号墳から金銅装円頭大刀が出土。






11号墳出土の金銅装円頭太刀の図
  (歴史資料館でいただいた資料)

把間に点刻で表現した渦巻状の唐草文を施している。
7世紀頃の日本製大刀に共通した手法だそうだ。 




古墳模型

「模型」ってどういう意味なのか?

石室が3基復元されているが・・・・・。
説明がない・・・。

水科古墳群と宮口古墳群は500mぐらいしか離れていない。
何が違うのか?
水科古墳群は全て水田の中にあり、狭い所に密集して34基もの古墳がある。、
宮口古墳群は水田の中にある古墳もあるが、山の中にも古墳があり、一つ一つの古墳がゆったりとつくられている。
保存のしかたや見せ方も違うようた。
現在はどちらも上越市だが、
水科古墳群は旧中頸城郡三和村大字水科
宮口古墳群は旧東頸城郡牧村大字宮口。
行政区の違いが保存方法の違いになったのではないかな?

石造仏頭3箇
県指定文化財
上越市三和区水吉
撮影日2011/6/18

「石造仏頭」の案内板が出ているので行ってみた。案内があってもわかりにくい。
山裾に石仏が「堂百地蔵宮」というお堂の中に保存されている。

堂百地蔵宮

中央の小さな建物の中に仏頭がおさめられている。

もとは大きい建物があったようだ。





お堂の格子戸の間から内部を見る



鎌倉時代に三和区付近で採掘される大光寺石(凝灰石)を用いて彫刻されたと推定されている。
観音菩薩、阿弥陀如来、地蔵菩薩の3つの石仏
通称「首切地蔵」と呼ばれている。
中央が阿弥陀で高さ73cm
右が地蔵で高さ53cm
左が観音で高さ71cm
これほど大きな仏頭は全国でも4、5体しかないという。


地蔵は、江戸時代に水吉地蔵屋敷から移された。
如来と観音は、水吉字堂百を開田したときに出土したものといわれている。

造られた時代から差し込み式石仏(肩から下は自然石でできており、それにこの仏頭を差し込み祭った)と推定されている。
(参考:上越市HPなど)


 
初めての新潟県はここでおしまい。
一般道を西へ。
道の駅「うみてらす名立」、「親不知ピアパーク」などを散策しながら、
富山県の「じょうべのま遺跡」へ

「じょうべのま遺跡」のページへつづく

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