掲載日2015/7/12

越後の旅その2

古津八幡山遺跡から
2015/5/23~25

越後の旅・第1日目、午後の部は、全面公開が始まったばかりの古津八幡山遺跡から。

サークルK 新潟八代田店 (新潟市秋葉区八代田3329)で弁当を買い、
    古津八幡山遺跡のある「花と遺跡のふるさと公園」で食べることとする。 

新潟市の地図

古津八幡山遺跡
国指定史跡
新潟市秋葉区古津
撮影日2015/5/23

今年(2015年)4月17日に、古津八幡山遺跡の全面公開が始まったばかり。
花と遺跡のふるさと公園」となっていて、たくさんの人が訪れている。
が、古津八幡山古墳まで行く人は、ずいぶん少なくなってしまう・・・・・
弥生の丘展示館でパンフレットをたくさんいただき、とりあえず古津八幡山古墳を目指す。

古津八幡山古墳は、新潟県最大の古墳といわれていたが、城の山古墳が前方後円墳と確認されて、
最大級の大きさという表現に変わった。
が、2015年9月、「城の山古墳は前方後円墳ではない」という発表により、また
県内最大の古墳に復活した。


弥生の丘展示館横の古津八幡山遺跡(古墳)につづく道
  ここから徒歩10分

古津八幡山遺跡 入口

山を登って、条溝1と条溝2の間の広場のベンチにて昼食。

 古津八幡山遺跡
 信濃川と阿賀野川にはさまれた新津丘陵上に立地する弥生時代後期(1世紀~3世紀)の高地性環壕集落
 環壕に囲まれた南北400m・東西150mの範囲から
  
環濠・竪穴住居(50棟以上)・土坑・墓(方形周溝墓・土器棺墓・前方後方形周溝墓)などが確認されている。
 集落が途絶えた後の古墳時代には、県内最大級の
古津八幡山古墳(4世紀末~5世紀初め)が築かれている。

 環濠は断続的に二重に配置され、深さは2m近いところもある。
 方形周溝墓は環濠の外側につくられており、
   主体部である棺跡からは鹿角装鉄剣(鹿の角の柄が付いた鉄剣)や、石鏃(やじり)が出土。

 1987年の第1次から、2011年の第17次までの発掘調査




古津八幡山遺跡 歴史の広場 案内図
  (パンフから)




 条溝(ジョウコウ)
 東西方向の尾根を分断するためにつくられた空堀。断面はV字形。
 平面は西に開いた弧状になっていて、西側は集落の内部だったことが分かる
 外側の土塁を復元し、中央を通路と推定して復元している。

条溝1

条溝)2




内環壕と竪穴住居復元


住居は50棟見つかっている
形は隅丸方形


 平地から30m以上の丘の上の集落で、
  水稲耕作に不向きなことと、環濠集落であることから、戦いに備えた防禦のための集落と考えられている。
 弥生時代末期には廃絶する。
 方形周溝墓  環壕の外側から方形周溝墓3基が見つかっている。


外環壕の外側に2基並んで方形周溝墓がある。

2基の方形周溝墓が1本の溝を共有してつくられている。

方形周溝墓1の埋葬施設(組合式木棺)から
    鉄剣と弓矢の先(石鏃)が出土。
方形周溝墓2からは、
    儀式に用いた土器がたくさん出土。
方形周溝墓1の北西隅から土器棺墓も見つかっている。


墳丘は残っていなかったが、復元している。

もう1基の方形周溝墓は、すこし離れた所にある。
 前方後方形周溝墓
  内側の環濠に囲まれた標高55mの丘陵頂部に1基だけみつかっている。




弥生時代終末期の築造
と推定されている。

出土した遺物は、
 北陸系・東北系・両者折衷の在地系の3系統にわたり、
 日本海や阿賀野川を介して北陸地方中西部・東北・会津地方と
 つながりがあったことが分かる。

古津八幡山遺跡では、弥生時代終末期に高地性環濠集落が廃絶する。
1世紀半後に、古津八幡山古墳がつくられる。
古墳は丘陵の先端部(標高50m)に築かれ、平野からの眺めを意識してつくられたと考えられている。

 古津八幡山古墳
 径60mの円墳 斜面中ほどに幅4~5mの平坦部(テラス)がめぐる。
 古墳時代前期の終わり~中期の初めごろ(西暦400年前後)の築造と推定されている。
 墳頂も発掘調査をしたが、埋葬施設は発見されなかった。




古津八幡山古墳整備後平面図
 
 (パンフから)

 墳頂では一辺11mの四角形にまわる溝が見つかった。
  この溝は平安時代(900年ごろ)のもので、建物または墓に伴うと考えられている。
  このときに、墳頂が大きく削られ埋葬施設が壊された可能性がある。
 古墳の南西側(周濠A)と南東側(周濠B)に周壕がある。
  周濠Aは最大幅13m・最大深さ4m。周濠Bは最大幅3m・最大深さ1m。
  周濠Aと周濠Bの間は途切れていて、通路の様な役割りがあったと考えられている。



1991年調査時の古津八幡山古墳測量図

 (パンフから)


第二次世界大戦前後の畑の畝の跡がある。
1976~2001年ころまで
   墳頂には大気観測所の建物が建てられていた。



 発掘調査では、埋葬施設が確認されなかった。
 墳頂には平安時代の溝がみつかっていて、 その時に埋葬施設が削平された可能性がある。
 明治期にあった八幡宮や、第二次世界大戦中の開墾、
          大気観測所設置時にも頂上の一部が削平されていると考えられている。



南東から見た古津八幡山古墳


墳頂は広い

東側から墳丘を見上げる

左手前は 古墳の南西側(周濠A)
 八幡山古墳の盛土の下や周辺で弥生時代後期(1~3世紀)の竪穴住居が多く見つかった。
 古墳時代の建物などはなく、その頃の集落はふもとにあったと考えられている。
 古墳をつくった豪族の屋敷(居館)は近くの古津駅周辺の
舟戸遺跡が有力

遺跡の見学を終えて、弥生の丘展示館の見学。

 弥生の丘展示館の様子

「国指定史跡 古津八幡山遺跡 考古学検定」というのがあったので、大急ぎで解答したが、
84点だった・・・・まだまだ 修行が足りないな~!

約2時間の古津八幡山遺跡の見学でした。

菖蒲塚古墳・隼人塚古墳
国指定史跡
新潟市西蒲区竹野町
撮影日2015/5/23

東側の金仙寺から行けば分かりやすかったのかもしれないが、西の山側から行ってしまった。
2時45分  着。



菖蒲塚古墳・隼人塚古墳
 西側からの入口






墓地の中に、2基の古墳がある。


菖蒲塚古墳・隼人塚古墳 測量図
(古津八幡山遺跡パンフから)

どちらの古墳も、古墳の形や規模を決めた後、
 それに合わせて外周の地面を掘り込み(周溝)、
 その土を盛り上げて墳丘を築いている。

大規模な土木工事の先駆けといわれている。

 菖蒲塚古墳
 全長53mの前方後円墳 後円部径33m・高さ3m、前方部幅18m・高さ2m 周溝がある。
 舌状台地の先端部の標高26mに位置している。
 江戸時代の盗掘で後円部から銅鏡1面と勾玉1・管玉7が出土している。

 平成14(2002)・15年の範囲確認調査で、周囲の溝から墳丘から転落したとみられる壺が出土
 
4世紀後半の築造と推定されている。
 角田山麓では、山谷古墳に続く首長墓とみられている。

 また、墳丘は平安時代~室町時代に経塚として利用されていて、経筒などが見つかっている。
 これらの出土品は、国の重要文化財・考古資料に指定され、
  古墳の副葬品(勾玉・管玉)とともに近くの金仙寺に保管されている。

 菖蒲塚古墳に関する最も古い記録は、文化8(1811)年に刊行された「北越奇談」。
 そのころは、古墳とは考えられておらず、源頼政の妻・菖蒲御前の墓と言い伝えられていた。
 隼人塚古墳は、その家臣の猪隼太(イノハヤタ)の墓といわれていて、どちらも古墳の名前の由来となっている。




出土した鏡  (説明板から)   個人蔵

ダリュウキョウと読む

直径23.7cmで
県内で出土した鏡の中で最大(県指定文化財)


この鏡は、類似品が山梨県「中道銚子塚古墳」や奈良県「新山古墳」から出土している。


菖蒲塚古墳


左手前 後円部
右奥 前方部

菖蒲塚古墳の後円部  右に前方部がある

菖蒲塚古墳 前方部脇から後円部を見る

菖蒲塚古墳 前方部から後円部を見る

菖蒲塚古墳 後円部から前方部を見る

前方部前面 奥に後円部がある。

隼人塚から見た菖蒲塚

日本海側で最北端に位置する前方後円墳といわれていたが、現在最北端の前方後円墳は城の山古墳である。

 隼人塚古墳
 菖蒲塚古墳の北西に隣接する 径21mの円墳
 発掘調査はされていないので、詳細は不明だが、菖蒲塚と同じ時期につくられたと推定されている。

菖蒲塚から見た隼人塚古墳

西から見た隼人塚古墳


山谷古墳
市指定史跡
新潟市西蒲区福井
撮影日2015/5/23

山裾にある地元の鎮守様・福井神社に駐車。
そこから西へ、山あいの道を進むと、山谷古墳登り口につく。



山谷古墳登り口



そこから、階段を登りきると、墳丘がある。
標高55mで、平地との比高差は43m。


3時20分  山谷古墳  着。

 山谷古墳は 全長37mの前方後方墳。   後方部長さ21.8~22.9m・後方部幅19.5~21.1m・高さ4.6m
  墳丘の南側(平野部側)のみ3段築成
  後方部中央に安置された長大な
割竹形木棺(長さ4.8m・幅1.4m)から、
       管玉7・ガラス小玉34・ノミ形鉄製品1が出土。
  棺の上から、破砕された小形土器、
  前方部のクビレ付近から、壺・甕が出土。
  墳丘形態や出土遺物から
4世紀中頃の築造と推定されている。
  市指定史跡で、出土品も市の文化財に指定されている。






山谷古墳墳丘平面図 

(「墳丘構築法から見た越後の前期・中期古墳」
     から引用)


昭和58・62年調査


 墳形の特徴 から能登半島とのつながりが指摘されている。
 高地性集落が廃絶した地につくられた古墳で、
     古墳に葬られた人の住んでいたのは、東の眼下にある御井戸B遺跡と考えられている。

後方部から前方部を見る

前方部から後方部を見る

後方部正面を見上げる 奥に前方部

造出の部分

後方部の奥にある小マウンド2つ

小マウンド2つ 左は後方部
 弥彦・角田山の山麓には、4世紀前半~5世紀前半の古墳が4基ある。
 これらは矢川水系を単位に結集した一つの政治組織に帰属すると考えられ、
 稲葉塚(弥彦村)→山谷・菖蒲塚(西蒲区竹野町)→観音山(西蒲区樋曽)の変遷が指摘されている。
 本古墳の墳丘下には、古墳造営に先立ち営まれた、「弥生高地性集落」も確認されていて、
 戦乱の時代から古墳出現に至る歴史的な流れが感じられる重要な遺跡だ。  (昭和60年設置説明板から)

古津八幡山古墳がつくられた経緯と同じなんだな・・・・・。

観音山古墳
市指定史跡
新潟市西蒲区樋曽
撮影日2015/5/23

山谷古墳から南へ500mの丘陵上にある。墳頂は標高40mだが、こちらは整備されておらず、ジャングルだ。

4時ごろ 着。

 観音山古墳は  26mの円墳
  未発掘だが、葺石・周溝らしきものが確認されている。


観音山古墳   (古津八幡山遺跡パンフから)

未発掘

土器などの遺物が見つかっていないので年代は不明だが、
  
古墳時代前期後半の築造と推定されていて
    
菖蒲塚に後続してつくられたと考えられている。

昭和58年(1983)に測量調査



 本古墳に葬られた人物が生前住んでいた集落としては、
   古墳の眼下にある高島遺跡が第一候補にあげられるが、不明な点が多い。
  近くの御井戸B遺跡の可能性もある。

 県内では葺石のある古墳は少なく、
    西区の緒立八幡神社古墳、南魚沼市の飯綱山10号墳などがあるに過ぎない。
 緒立八幡神社古墳の葺石は、
  観音山古墳周辺の丘陵で採取したものを西川などの河川を利用して運んだ可能性が指摘されている。
  時期は違うが、それぞれの古墳に埋葬された人物の関連性が注目されている。


観音山古墳 
   
大きな墳丘

観音山古墳の現状は山林です

観音山古墳墳頂から、裾を見下ろす

なかなか登れない・・・・・

弥彦神社 西蒲原郡弥彦村弥彦
撮影日2015/5/23

大正の再建から100年ということで、記念事業の一つとして、舞殿でピアノ生演奏が行われていた。
翌日が、本番らしいから前夜祭なのか?リハーサルなのか?
   ≪奉祝行事むすび「音楽」 奉納演奏 百年の想いを百年に結ぶ≫というもの

弥彦村の地図

4時半ころ  弥彦神社 着。

弥彦山のふもとにある神社は、重厚な雰囲気に包まれていた・・・・。

 弥彦神社
  御祭神は天香山命(アメノカゴヤマノミコト)で神武天皇の命を受け、
   住民に海水から塩をつくる技術、漁、稲作など農耕術などの基礎を教えられたとのこと。

弥彦神社 一の鳥居

弥彦神社 手水舎と二の鳥居

弥彦神社 参道

弥彦神社 随神門  2体の随神が収められている



弥彦神社 拝殿

 明治45年の炎上後、大正5年に再建した。 平成10年、国の登録有形文化財となる。

次の稲葉塚を見学後、弥彦村役場付近を通りかかったら、大鳥居を発見!!


 
弥彦神社大鳥居

改修中の上に、裏側からの撮影
    (車中から)

昭和57年に上越新幹線開通を記念して建てられた。

上部の額の大きさは畳12枚分(3.5×5.5m)で、
  弥彦山山頂にある御神廟を仰いでいる。。
 

 高さ30.16m、柱間20.0m、笠木38.5m。社号は 畳12枚敷(3.5×5.5m)。
耐候性特殊鋼製である

稲葉塚古墳
村指定史跡
西蒲原郡弥彦村山岸
撮影日2015/5/23

近くまで行くが見つからないので、農作業中の男性に尋ねたところ、
 「稲葉塚古墳」の標柱が立っている所は知っているが、もう何も残っていないと言われ、がっかりしてそこに行ってみる。

携帯電話の電波塔の横に標柱があり、その後ろに墳丘があった!

5時3分ごろ  稲葉塚古墳 着。



稲葉塚古墳入口

墳丘は雑木の中に埋もれている



そばまで車で行ける。

 稲葉塚古墳は  全長26mの前方後円墳
    後円部径15.2m×14.1m・高さ1.7m 前方部幅7.5m・長さ11.1m・高さ1.4m

  1992(平成4)年に測量調査
  古墳の各所で土師器の破片137点が出土、中には赤色の彩色を施したものもある。
  葬祭に使われた名残りか
  後円部の上部が削られて段になったところからガラス小玉も出土。



稲葉塚古墳測量図
  (続古墳辞典から)

未発掘のため、詳細不明だが、
ボーリング調査から
埋葬施設には石を使用している可能性があると考えられている。

墳丘の形(柄鏡形)や出土した土器なとから、
  
4世紀前半の築造と推定されている。

  越後では最も古い部類に属する古墳である。

 西に弥彦山と矢川の沖積平野、東に広大な新潟平野を見晴らす
   南北に長い井田丘陵の東縁部に位置している。
 古墳の頂上の標高は45.33m、麓の水田からの高さは約37mである。

 また、土器の中に弥生時代後期のものが採集されたことから、
     当地が弥生時代の高地性集落の可能性も指摘された。(弥彦村文化財一覧)





稲葉塚古墳 横姿

墓地として利用されていたようだが、
墓石はほとんどほかに移されたようだ

稲葉塚古墳 前方部脇から後円部を見る

稲葉塚古墳後円部 墳頂に古墳と彫られた墓石がある。

道沿いにあるが、鬱蒼としていて、不気味なほどだ・・・・・。

保内三王山古墳群 三条市上保内
撮影日2015/5/23

三条市のHPに保内三王山古墳群が紹介されている。
見学はできるのか・・・・?
古墳群のある山裾を一廻りして
、あきらめる。登り口が分からない。 
 6時ごろ・・・。まだまだ明るい・・・

 保内三王山古墳群





保内三王山古墳群のある丘陵

北から見る
 丘陵尾根上の標高40~120mにある前期から後期の古墳、計17基の古墳群



保内山王山古墳群分布図
  (山王山古墳群調査報告書から)

古墳時代前期の
   前方後円墳(1号墳)、
   前方後方墳(4号墳)、
   造出付円墳(11号墳)

古墳時代後期の
   円墳9基(2・5~9・13・15・17号墳)、
   方墳5基(3・10 ・12・14・16号墳)

 11号墳全長23mの造出付円墳 埋葬施設は組合式木棺で、
    中から鏡や鉄剣・鉄斧、玉類が出土。古墳時代前期後半の築造と推定されている。
 
4号墳(全長16mの前方後方墳)→11号墳(主軸長23.0mの造出付円墳)
                 →1号墳(前方後円墳)の順に作られた
と考えられている。

詳しくは、三条市のHPをご覧ください。

本日の予定を終了。
寿司でも食べようと思うが、土曜の夜でどこもいっぱい・・・・
結局 すき家289号三条東裏館店 (三条市東裏館3-576-1)で夕食・・・ 

7時過ぎに コンフォートホテル燕三条(三条市須頃)にチェックイン

桜又の古墳  へつづく

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