北村さんちの遺跡めぐり

富山市婦中町   地図g   地図y

小長沢3号墳

富山市婦中町小長沢
撮影日2013//5/26


図書館で見た婦中町史に掲載されていた古墳だが、場所がようやく特定できた。
以前は羽根丘陵の東南ふもとの若宮八幡神社が、小長沢3号墳かと思ったが、本で見たのとは雰囲気が違う。
ふもとではなく、若宮八幡神社の北200m程、丘陵を上がったところにある古墳だった。
「神明社」をキーワードに探したり、尋ねたりしたが、地元では「こんぴらさん」と呼ばれているようだ。
(こんぴらさんと呼ばれているが、神明社だそうな・・・・・?!)

小長沢3号墳は、長沢丘陵の東縁斜面の神社境内に所在する
 18×13m・高さ1.8mの方墳。     (婦中町史から)

小長沢3号墳 墳丘上に小さな神社がある。

小長沢3号墳 北から見た墳丘
近くには二本榎遺跡がある。
二本榎遺跡は、石鏃、石錐・石匙・有孔小玉などが出土して縄文中期の遺跡だが、
2011年、隣接した場所の調査で、横穴式石室がある円墳が発見された。
小長沢3号墳とその円墳の関係はどうなのだろうか?  
若宮八幡神社 富山市婦中町小長沢
撮影日2011/3/6

「婦中町史」には、
小長沢3号墳は、長沢丘陵の東縁斜面の神社境内に所在すると書かれている。
小長沢地区の神社とは、この若宮八幡神社ではないかと訪れてみた。


若宮八幡神社
鳥居の向こうに見える社殿の背後に小さな奥宮がある。




若宮八幡神社奥宮





婦中町古里地域観光協会・古里郷土史研究会の連名で立てられた説明板には、
古墳については何も書かれていない。
「八幡社は応神天皇が祀られるが、当社はその皇子の仁徳天皇が祀られているので若宮となっている。」
「神社の後方の台地は、二本榎遺跡という縄文中期の遺跡で、
   石鏃、石錐・石匙・有孔小玉などが出土している」と書かれている。

これは、小長沢3号墳ではなかった・・・・・。

安田城跡
国史跡
富山市婦中町安田
撮影日2011/3/6

呉羽丘陵東南麓、井田川の扇状地に立地する戦国時代の平城跡。
天正13年(1585)、全国統一をめざす豊臣秀吉が越中の佐々成政を攻めた際、
前線基地となった白鳥城の支城として使われた。
前田家の部将であった岡嶋喜三郎一吉が城主となった後、
代官平野三郎左衛門が居城したが、後に金沢に帰還し、廃城になったと伝えられている。

本丸、二の丸、右郭からなり、井田川から水を引き入れた堀がめぐっていた。

安田城跡

江戸時代文化年間に描かれた
「安田古城之図」と重なる。
出土品の9割はかわらけだったが、
陶磁器や短刀、鉄釘、銅銭、砥石などが出土した。

安田城跡資料館が併設されている。

史跡 王塚・千坊山(センボウヤマ)遺跡群

婦中ふるさと自然公園の中池のそばの休憩ポイントには、周辺の遺跡についての立派な説明板が立っている。
「史跡 王塚・千坊山(センボウヤマ)遺跡群」とかかれた案内板だ。

富山湾より12km内陸にある山田川流域には、
 弥生時代後期から古墳時代前期の集落跡や墳墓・古墳が連続して分布している。
四隅突出型墳墓や前方後方形墳墓・大型の前方後円墳や古墳など
墓と集落の対応関係も分かり、地域がまとまっていく様子が具体的に分かる。
平成17年3月、7ヶ所が国史跡「王塚・千坊山遺跡群」として指定された。
   (説明板抜粋)

案内板の中の航空写真を参考にして、遺跡地図を作ってみた。

婦中の「王塚・千坊山遺跡群」遺跡地図

@ 経塚 横穴
A 王塚 前方後方墳 全長58m
B 勅使塚 前方後方墳 全長66m
C 五ツ塚 円墳5基 直径14〜20mの円墳
D 向野塚墳墓 前方後方形墳墓 全長25.2m
E 六冶古塚 四隅突出型墳丘墓 側片部一辺24.5m
突出部長7.2m
F 鏡坂1号墓 四隅突出型墳丘墓 側片部一辺24.1m
突出部長さ4m以上
G 鏡坂2号墓 四隅突出型墳丘墓 側片部一辺13.7m
突出部長さ3.75m
H 富崎3号墓 四隅突出型墳丘墓 南北22m・東西21m
I 富崎2号墓 四隅突出型墳丘墓 1号墓とほぼ同じ規模
J 富崎1号墓 四隅突出型墳丘墓 一辺21.7m・高さ3m、
突出部の長さ6m
K 富崎千里古墳群
(北群)
7基の方墳
2基の円墳
1基の前方後円墳
2基の墳形不明墳
富崎千里丘陵の東端の長背状の尾根の標高47〜58mに所在
1号墳は一辺13.5m・高さ0.8mの方墳
L 富崎千里古墳群
(南群)
M 添ノ山古墳 方墳 東西26m・南北24m・高さ3m
N 富崎城址 戦国時代の山城跡
O 新町大塚古墳 円墳 南北径10m・東西径6m・高さ2.3m

羽根山古墳群
史跡 王塚・千坊山遺跡群
富山市婦中町

羽根山古墳群とよばれる王塚・勅使塚・五つ塚の一帯は各願寺を中心にした公園として整備されている。
これらの古墳は各願寺関連の墓としての伝承が残っているが、当然、後でこじつけたものだ。

王塚古墳
国指定史跡
(羽根山古墳群)
史跡 王塚・千坊山遺跡群
婦中町羽根字下平
(撮影日2002/10/20)
遺跡番号A

簡保保養センターのとなりに静かに横たわっている。
全長58mの前方後方墳
 
前方部長さ27m・高さ3.6m 後方部長さ31m・高さ7.6m

王塚古墳 全景
全長58mの前方後方墳
撥形に開く前方部、
 前方部と後方部の比高が大きいなどの特徴から、
 古墳時代初期の築造と考えられている。
勅使塚より古い。

王塚古墳前方部から後方部を見る
伝承では、各願寺開山(701)仏性聖人の御廟と伝える。


勅使塚ちょくしづか
県指定史跡
(羽根山古墳群)
史跡 王塚・千坊山遺跡群
婦中町羽根字前割
(撮影日2002/10/20)
遺跡番号B

王塚から南に約500mのところにある。
当時は県内最大の前方後方墳と言われたが、今は柳田布尾山古墳(富山の遺跡・西部参照)に第一位の座を奪われている。
全長70mの前方後方墳
 前方部長さ24m・高さ2.8m  後方部長さ46m・高さ6.3m

 勅使塚の形   (説明板から)
 自然)の丘を利用しているのでゆがんでいる。
 下の写真はこの図の上の側から写したもの。
 前方部の長さがとても短い

県内第2位の大きさの前方後方墳
古墳時代初期の築造
二段築成の様子がよくわかる
伝承では、建武年間(1334〜1336)
 各願寺と比叡山延暦寺との争いのときに、
 仲裁のために遣わされた勅使の墓とされる。

五ツ塚
(羽根山古墳群)
史跡 王塚・千坊山遺跡群
婦中町羽根字前割
(撮影日2002/10/20)
遺跡番号C

勅使塚から山道を5分ほど入ったところに五つの土まんじゅうが忘れられたようにある。





直径14mから20mの円墳が5基一列に並んでいる。
木がなければ婦中平野がよく見える場所である。
伝承では、建武年間の争いの折、
 遣わされた勅使に随伴していた京人の墓である。

羽根山古墳群データ

王塚 全長58mの前方後方墳
前方部長さ27m・高さ3.6m・後方部長さ31m・高さ7.6m
勅使塚 全長70mの前方後方墳
前方部長さ24m・高さ2.8m・後方部長さ46m・高さ6.3m
五ツ塚@ 直径12〜15.5mの円墳 高さ1.6m
五ツ塚A 直径14〜14.3mの円墳 高さ1.7m
五ツ塚B 直径15.5〜16.5mの円墳 高さ1.9m
五ツ塚C 直径15.3〜12.5mの円墳 高さ2.1m
五ツ塚D 直径21〜20mの円墳 高さ2.4m

経塚
史跡 王塚・千坊山遺跡群
富山市婦中町(旧婦中町)新町
(撮影日2007/6/16)
遺跡番号@

婦中ふるさと自然公園に行く途中、坂の途中に案内板発見!
「経塚」とある。


経塚の穴

6〜7世紀 古墳時代終末期の横穴

伝説では、各願寺と比叡山延暦寺の争いのとき、各願寺の仏像をこの穴に隠したといわれている。
婦中町史にあった「新町横穴」か?

六冶古塚
ロクジコヅカ

史跡 王塚・千坊山遺跡群
富山市婦中町新町
(撮影日2007/6/16)
遺跡番号E

富山病院の南の病院官舎の後あたりにある。

六冶古塚
片部一辺24.5m・突出部長7.2m・突出幅10.6m・高さ5.1m
平成11年(1999)試掘調査により
 3世紀前葉
に築造された四隅突出型墳丘墓と判明した。
名前の由来は
江戸時代に書かれた「肯構泉達録」に
 掲載されている「六冶古物語に出てくる
 六冶古の墓として言い伝えられていることによる。
六冶古塚の隣にあるという向野塚墳墓は、
全長25.2mの前方後方形墳墓だが、確認できなかった。


中部
新町向野遺跡
アラマチムカイノイセキ
史跡 王塚・千坊山遺跡群
富山市婦中町新町

富山病院の前に新町向野遺跡の案内板がある。
縄文時代中ごろからの遺物が出土した。


中部
富崎墳墓群
史跡 王塚・千坊山遺跡群
富山市婦中町富崎
遺跡番号HIJ
撮影日2007/6/16
2011/3/6

富山県畜産試験場のある「丘の夢牧場」内にある。
富崎城址の大きい説明板がある。

富崎城跡  (撮影日2007/6/16)
滝山城・福山城ともいう。
戦国時代、越中最大の勢力者神保氏の支城のひとつだった。
その後佐々成政の支城にもなった。
廃城は1585年ころ
二重の空堀や広い郭・井戸などを備え、馬出を設けている。
本丸付近から落城の際の焼き米が出土した。
富崎城址の東向かいに富崎1・2号墓があるらしい。

左 富崎1号墓
右 富崎2号墓

1号墓の右奥に2号墓があるのだが、
写真だと遠近がはっきりしない。
   (撮影日2008/10/13)

冬の富崎1号墓
撮影日2011/3/6
野生動物が墳丘に穴をあけて巣を作っているようだ。
右奥に富崎城跡の説明板が見える。



冬の富崎2号墓
1号のすぐ北側にある。

こちらは雪がない。

撮影日2011/3/6



富崎3号墓入り口
入り口に案内板が立つ

(撮影日2007/6/16)



富崎3号墓
四角い台状墓に見えるが、突出部がはっきりしない。
雑木・倒木で分かりにくい状態

(撮影日2007/6/16)
富崎墳丘墓
弥生時代後期から終末期の四隅突出型墳墓群
1号墓は、一辺21.7m・高さ3m、 突出部の長さ6mで周囲には溝がめぐる
2号墓は 1号墓とほぼ同じ大きさ
3号墓は、南北22m・東西21m・高さ3.9m
突出部を彫り残すように周囲を削りだして整形されている。
墳裾から装飾性豊な弥生土器が多く出土
周辺には、長さ2.5m・幅1mの土抗墓と考えられる細長い土抗や、
 壺4・甕1が出土した直径130cm・深さ70cmの遠景の土抗が検出
このあたりでは、集落ごとに四隅突出型墳墓が築かれている。

鏡坂墳墓群
史跡 王塚・千坊山遺跡群
富山市婦中町長沢
遺跡番号FG
撮影日2007/6/16
2008/10/13

富山病院の山を下り、国道に出ると、大きな廃工場(元は電子工場)がある。工場を囲むように四隅突出型墳墓2基がある。

2号墓
側片部一辺13.7m
 ・突出部長さ3.75m・突出部幅6m・高さ3m
廃工場の東側

(撮影日2007/6/16)

1号墓
側片部一辺24.1m
 ・突出部長さ4m以上・突出部幅12m・高さ4.8m
廃工場の南側

(撮影日2007/6/16)



1号墓

(撮影日2008/10/13)



添ノ山古墳
史跡 王塚・千坊山遺跡群
富山市婦中町(旧婦中町)新町
(撮影日2007/6/16)
遺跡番号M

現在「しらとり養護学校」になっている場所にも古墳があった。

添ノ山古墳跡地

現在は養護学校の校庭となる。
古墳のように見える山は、
単なる築山。
添ノ山古墳は、1966年調査されて、東西26m・南北24m・高さ3mの方墳(二段築成)と確認されている。
小判型の土坑が検出された。土師器・須恵器の破片が出土。

新町大塚古墳

富山市杉谷
撮影日2013//5/26
遺跡番号O

図書館で見た婦中町史に掲載されていた古墳だが、場所がようやく特定できた。 午後5時30分着
住所は富山市杉谷なので旧婦中町ではないが、ここに記す。

 新町大塚古墳は 王塚・千坊山遺跡群内にある
  現状で南北径10m・東西径6m・高さ2.3mの円墳
  長沢丘陵の東縁斜面にある。
  (八尾小杉線と王塚へ至る東西にのびる道路が交差する地点から
    主要地方道を北へ220m行った地点の道路に西接)
                            (婦中町史から)


北東から見た新町大塚古墳

新町自治会がたてた説明板では、
「チンチン山  (円墳)鎌倉時代〜室町時代
 径約8mの円墳で、昔旅の僧がこの地まで来て病気で動けなくなり、
  この地で鉦をたたきながら読経をしていたが、そのうちなくなったとのことです。
 頂部には高さ約40cmくらいの石塔が立っており、梵字で大日如来を表わしたものがある。
 このことから各願寺と関係あると考えられる。」
 とある。
 発掘調査では、縄文土器が出土したとか???

北東からみた新町大塚古墳

新町大塚古墳 墳頂の石碑
  梵字が刻まれている。


このほか、
金屋陣の穴横穴墓は安田地内と金屋地内に所在

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