掲載日2008/8/8

富山小矢部市の
谷内古墳群・関野古墳群

2007/5/6
 2008/4/6

地図g

昨年(2007年)5月、福光に用事があって少し時間があったので、福光図書館に行ったり、埴生をドライブしたりした。
そのとき道端に「谷内16号墳の説明板を見つけた。
雨が降っていたこともあって、こんどゆっくり見に行こうということで、「16号墳説明板」と「21号墳」の写真だけ撮って帰ってきた。

2007年5月に見つけた谷内16号墳の説明板
後ろの山を登ったところに16号墳と
3基の弥生墳丘墓があるという
(撮影日2007/5/6)

地図

1年前に見た「谷内16号墳説明板」をめざして出発。
まず、埴生八幡神社の横にあるポケットパーク「埴生口」に行く。
ここの正式名称は歴史国道案内休憩施設「倶利伽羅源平の郷 埴生口」という。
「くりから絵巻」と名づけられた立派なパンフレットがもらえる。
施設内の床に付近の地図が描かれているので、それを見ながら、職員の人に尋ねながら、
「谷内16号墳」の説明板の位置を確認。
谷内16号墳に向かう。

今回は行かなかったが、八幡宮のすぐ南にある若宮古墳は前方後円墳。
整備されていて、古墳の周りには大きな説明板がある。
その説明板には、谷内古墳群・関野古墳群の説明もある。
だが、説明板を見ただけでは、谷内古墳群・関野古墳群の位置が分からない。

谷内16号墳の説明板のところから急な山道を登る。
どれくらい登ればいいのか分からない。
あきらめようとしたとき、古墳らしい地形を見つける。

谷内16号墳 小矢部市埴生字谷内






16号墳・後円部から前方部を見下ろす

標高150mあたりにある。
(撮影日2008/4/6)






16号墳・前方部から後円部を見上げる。
(撮影日2008/4/6)




発掘時の16号墳
(若宮古墳そばの説明板から)

谷内16号墳は、昭和62年、発掘調査。
全長47mの前方後円墳
前方部先端が撥形に開くことや、墳頂部で出土した壺形土器片から北陸最古級の前方後円墳と考えられている。
埋葬施設は(割竹形)木棺直葬でから鉄剣1・鉄鍬先1・鉄やりがんな1が副葬されていた。

南方に連なる3基の墳墓は弥生時代の墳丘墓と推定されている。




左奥(南) 13号墳
右      14号墳
(撮影日2008/4/6)





15号墳
(撮影日2008/4/6)

谷内16号墳の北側には、17号墳があるはずだが、
土取りでざっくり削られていて、谷のようになっている。
17号墳は消滅したと思われる。

最高位に位置する前方後方墳の17号墳は標高182.4mにあった。

谷内21号墳
小矢部市埴生字谷内

新しい住宅地の端に残されている。


発掘時の21号墳
(若宮古墳そばの説明板から)




2007年5月の谷内21号墳

(撮影日2007/5/6)
説明板は見当たらない






2008年4月の21号墳

尾根の先端に位置することがよくわかる写真だ。

標高80m付近にある。
(撮影日2008/4/6)
1988年に「谷内16号墳」の報告書がでたあと21号墳が発見された。
谷内21号墳は1991年調査
直径30mの円墳
割竹形木棺と見られる埋葬施設から
三角板革綴短甲1・長方板革綴短甲1・頸甲一式・肩甲一式・革草摺・革盾1の武具類と
鉄刀1・鉄剣2・鉄鏃40・竪櫛40が出土
墳頂部から土師器片・緑色凝灰岩製管玉・滑石製小玉多数が出土
5世紀前葉の築造と推定

関野1号墳は石坂地区の関野神社にあることがわかっていて、
2002年5月に見に行ってきた。
関野2号墳の場所が分からない。
図書館へ行けば、発掘報告書があるのではないか?
クロスランドおやべのそばに「おとぎの舘」という図書館がある。
そこへ行ってみる。

おとぎの舘は子供向けの図書館だった。
職員の方に、遺跡の資料のある図書館を尋ねたところ、
城山の小矢部市総合会館内に市立図書館があるということ。
なんと市立図書館の館長は、考古の専門家だそうで、出勤なさっていれば、
直接お話も聞けるという。

市立図書館へ。
受付で、谷内古墳群・関野古墳群の調査報告書がないか尋ねた。
あった!
書庫から、出してもらい閲覧した。
貸し出しもできると言われたが、あきらめた。
考古の専門家という館長の伊藤さんにも、お会いできた。
伊藤隆三館長は、福井の方で、
福井の松岡古墳群などの発掘にもかかわった方。
「谷内16号墳」の報告書がでたあとに発見された21号墳の発掘にかかわり、報告書を記している方。
21号墳で出土した武具の発見時の感動が、私たちに伝わった。

谷内古墳群・関野古墳群配置図(参考 谷内古墳群発掘報告書)


谷内16号墳側と4・21号墳側を分断する道路は
発掘当時はなかった。
21号墳は周辺の宅地開発の際
発見されたと思われる。

関野古墳群は前方後円墳1基と円墳6基からなる。
(この図を見ると、他に消滅した古墳が3基あるようだ。)

谷内古墳群
前方後方墳1基(17号墳)・前方後円墳1基(16号墳)を含む21基が確認されている。
(21基の墳墓群ということだが、この図をみるともっと多いようだ。)



図書館の北に城山公園がある。
城山公園は前田利秀の居城「今石動城」のあったところで、4000本の桜があるという。
ちょっと見に行ったが、桜の時期には1週間ほど早く、まだ咲いてなかったので、
通り過ぎ、
市立図書館で頂いた谷内古墳群・関野古墳群の資料をにぎりしめ、関野古墳群に向かう。

関野1号墳
小矢部市埴生字谷内
(撮影日2002/5/3)

関野1号墳は2002年5月に見に行った。



2002年5月の関野1号墳

関野1号墳
推定全長65mの前方後円墳
前方部長さ31.5m・幅30.5mだが
後円部はほとんど消滅
供献用土師器が出土。
かつて礫床を持つ埋葬施設から鉄鏃20が出土したという。
ここから出土したとされる銅鏃が2点現存している。
古墳時代前期(4世紀前半)の築造と推定されている。

今回はまっすぐ、2号墳を探す。

関野2号墳
小矢部市埴生字谷内
(撮影日2008/4/6)

1・2号墳は1986(S61)年発掘調査されている。


発掘時の関野2号墳
(若宮古墳そばの説明板から)



関野2号墳 南側から




関野2号墳 東側から

関野2号墳径29.5m・高さ3mの円墳
幅5mの舌状の張り出し部がある。
埋葬施設は長さ3.9m・幅0.8m・深さ0.1〜0.2mの墓坑で棺の痕跡は無い。
副葬品として、鉄刀1・鉄剣2・鉄短剣2・鉄鉾1・鉄鏃19・滑石製小玉221が出土。
5世紀前半の築造と推定されている。


関野3号墳
小矢部市埴生字谷内
(撮影日2008/4/6)



3号墳

2号墳の道を挟んで南にある。

3号墳の後ろに4〜7号墳がある。
写真を写したが雑草・雑木の中の写真なので載せないこととする。

関野古墳群の西に、巴塚・葵塚がある。
関野1号墳のある関野神社の横を通り巴塚・葵塚に行ってみる。
道路から、山の中に入ったところ。

巴塚・葵塚
小矢部市埴生

関野古墳群の西、石川県・富山県の県境にある倶利伽羅では、
関野古墳群が造営されてから数百年後の1183年春、
源義仲が、
角に松明をくくりつけた牛の群れを先頭に
山道を駆け抜け
平家(大将・平維盛)10万の大群を破った。
これが源平の戦に名高い「火牛の計」。

このときの中心人物「源義仲」の二人の愛妾の名が
「巴御前」と「葵御前」である。


源義仲の銅像
埴生八幡宮にある。
(撮影日2003/5/3)
巴塚は自動車の通れる道からかなり入ったところにひっそりとある。

巴塚にいたる道
(撮影日2008/4/6)







巴塚
(撮影日2008/4/6)
碑文
「巴は義仲に従い源平砺波山の戦の武将となる。
 晩年尼となり越中に来り九十一歳にて死す」
由来
「源平合戦の後、和田義盛と再婚した巴御前は豪勇を誇った朝日奈三郎義秀を生んだが、
  その後未亡人となり、後生を福光城主の石黒氏に託した。
石黒氏とは共に倶利伽羅合戦において平軍を攻めた親しい間柄であった。
尼となり兼生と称し宝治元年十月二十二日没し、
   石黒氏が此の地に巴葵寺を建立したと伝えられている。」

葵塚
(撮影日2008/4/6)
巴塚からさらに奥まったところにある。

碑文
「葵は寿永二年五月砺波山の戦に討死す。
屍を此の地に埋め墳を築かしむ」
由来
「葵は義仲の武将となり、倶利伽羅の戦に討死したので
    屍をこの地に埋め、弔ったと伝えられている。」

巴御前・葵御前は実在の人物なのだろうが、その人生は、小説などで脚色された部分が多いのではないか。
巴御前は知っていたが、葵御前という人は知らなかった。

巴塚・葵塚の付近も関野古墳群の範囲内。
巴塚・葵塚は、元の古墳を利用して作られたものではないか?

地図


せっかく、ここまで来たので、このまま西に向かい、倶利伽羅峠を越えてみよう。

石川県との県境あたりまでは、倶利伽羅県定公園となっていている。
万葉集の句碑・芭蕉句碑・火牛の像などが配置されている。
倶利伽羅峠の頂上には7000本の八重桜が植えられている。

車で通れる道は倶利伽羅不動あたりで、新しい国道8号線に出てしまう。
石川県側の旧北國街道は自動車が入れないのかなあ?

もともとの北國街道はハイキングコースとなっていて、もう少し北にあるようだ。

倶利伽羅峠は、自動車では越えられないようだ。

今日は通り過ぎるだけだが、リュックを背負い、北國街道を、ハイキングするのもいいかな。


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