秋常山古墳群
西山古墳群・補足
鳴和の滝など

2011/9/11に、小松市埋蔵文化財センター主催の講演会(題「つながっていた弥生時代の山陰と北陸」講師・佐古和枝氏)に参加した時に、
9/25に秋常山古墳群の保存整備完成記念シンポジウムが開催されることを知る。

秋常山古墳群
保存整備が完成しました
国史跡

能美市秋常町
(撮影日2011/9/11、16、25)

2003年に古墳公園として整備されると決まり、2007年に完成する予定だった秋常山古墳群。
保存整備が2011年にようやく完成。
それを記念して、2011年9月25日、保存整備完成記念シンポジウムが開催された。
午前9時の秋常山古墳群見学会に始まり、二つの記念講演、パネルディスカッションと続き、終了したのは午後4時30分。

 平成23年9月25日 シンポジウム「秋常山古墳群ー1600年の時を越えてー
 調査報告・・・「よみがえった加賀の大王墓」河村好光氏
 記念講演1・・・「秋常山古墳群の歴史的意義」 和田晴吾氏
 記念講演2・・・「遺跡の楽しさ、大切さ」 佐古和枝氏
 パネルディスカッション・・・上の3名に谷内尾晋司氏 

参加者は200人ほどで、充実した1日を過ごした。


整備前の秋常山古墳群実測図
西(左)側 2号墳
東(右)側 1号墳

      (シンポ資料から)

「西山10号墳」といわれていた小円墳が、1984年に大型の前方後円墳と確認され、秋常山1号墳と名付けられ、

「エモリ山の半壊古墳」といわれていた古墳が秋常山2号墳
と名付けられた。





南から見た秋常山古墳群

左(西)  2号墳
中央   秋常八幡神社
右(東)  1号墳の前方部

1号墳のくびれ部・前方部上にあった秋常八幡神社は、
現在1号墳の西麓に建て替えられている。



整備後の様子 (説明板から)




 秋常山1号墳

全長140mの前方後円墳  石川県最大の古墳
後円部最大径110m・高さ20m 前方部長45m
3段築成
葺石あり 埴輪なし
2段目東側の、くびれ部に造出がある。
4世紀後半の築造と推定されている。
1984年に発見され、1993年から2007年にかけて発掘調査が行われた。


秋常山1号墳全景

パノラマ写真です・・・・・





秋常山1号墳の後円部に上る見学者の皆さん




秋常山1号墳の後円部頂

とても広い墳頂部

全長140mの秋常山1号墳の後円部径が110m、
丹後にある全長198mの網野銚子山古墳の後円部径115m



物理探査による後円部埋葬施設の状況
    (説明板から)
埋葬部の発掘は行われていないが、
電気・磁気・レーダーを応用した物理探査によると、
木棺を粘土で覆った「粘土槨」と推定され、
両端に鉄製品などが副葬されていると考えられている。



秋常山1号墳 一部葺石が復元されている。

上から1・2段目の後円部、前方部斜面に河原石の葺石がある。
総数40万個・総重量660tの石が使われていると推定されている。

葺石の面に縦のすじみたいなものが見えるが、
これは作業範囲を区分するために「区画石」と呼ばれる大型の石を縦に並べたもの。

実際の葺石は盛り土をして保護されていて、その上に新たに復元した葺石である。


秋常山1号墳
前方部から後円部を見る




秋常山1号墳
後円部から前方部を見る


前方部は後世の土地利用で改変されていて、
現状で復元できる範囲に留めている。


秋常山1号墳 くびれ部東にある造出

南北10m・東西8m
この造出からベンガラが塗られた小型の土師器(高杯)が出土した。
祭祀の場か?

秋常山1号墳を  2号墳から見る

右奥が前方部

 秋常山2号墳

南北27m・東西32.5m、高さは東側4.8m・西側2.8mの方墳
円筒埴輪と朝顔形埴輪が墳頂部の周囲に並べられていた。
墳丘の西側裾から、やりがんな・鑿・鉄斧などの鉄製工具と砥石がまとまって出土
5世紀半ばごろの築造と推定されている。



秋常山2号墳
1号墳から見る


右半分(北)は、埋葬施設を見せるために高さが低くなっている。

秋常山2号墳墳頂部
ガラス越しに、埋葬施設が見られるようになっている。

南半分は、埴輪が復元されている。


秋常山2号墳 西から見る

まん中の白い扉を開けると、埋葬施設展示室。


秋常山2号墳の埋葬施設 奥が北側
       (埋葬施設展示室内部)

木棺を粘土で覆う「粘土槨」
北側を頭にして、
頭部付近に、刀子・針・竪櫛・滑石製臼玉、
足部の両側には鉄刀を1本ずつ副葬していた。


来丸古墳群

能美市来丸町
(撮影日2011/9/16、10/21)

秋常山2号墳の「埋葬施設展示室」内にあったパンフレットを見て、見学に行く。
能美市来丸町の物見山陸上競技場の北側の来丸物見山古墳群の前に説明板が立っている。
来丸古墳群は、
来丸古寺古墳群8基・来丸物見山古墳群3基・来丸古墳群4基・来丸気多神社古墳群2基の計17基が確認されている。
発掘調査がされていないので詳細は不明。
地表観察から、全て円墳で、7.5〜20mほどの大きさと考えられている。。
来丸物見山古墳群から、土師器の椀が出土。
5世紀後半〜6世紀前半の築造と推定されている。

来丸物見山古墳群は除草がされていて、見学が可能だった。


来丸物見山古墳群

前に説明板がある。





来丸物見山1号墳






来丸物見山2号墳







来丸物見山3号墳




       来丸古墳群の配置図



来丸古寺古墳群
テニスコートの北側に保存されている。

雑草で見学は困難。






来丸古墳群 2号墳

来丸古墳群の中では一番大きく見えたけど・・・・・。
横に1号墳がある。


来丸古墳群(円墳4基)は
陸上競技場の東側にある。




北側の道路から見た来丸古墳群






来丸気多神社古墳群 上り口

80段余の石段を上ると気多神社の社殿がある。




来丸気多神社古墳

社殿の東の林の中にある。
尾根の頂部にある。

発泡スチロールの保冷箱のふたに
「来丸気多神社古墳」と書いて立てかけてあるのが楽しい。

来丸気多神社古墳群は2基あるというがもう1基はよくわからない。

山上組十村屋敷跡
市史跡

能美市来丸町
(撮影2011/10/21)

来丸古墳群の隣にある。


山上組十村屋敷跡
十村は、複数の村を監督する役目を担った加賀藩独自の
農村統括機関で他藩でいえば大庄屋にあたる。
山上組十村は旧辰口町を中心として旧寺井町、川北町の一部、併せて37ヶ村を支配していた。
寛永18年(1641)の土室村の六郎兵衛が知られている。

十村役が来丸に屋敷を構えたのは享和年代(1801)初めごろの波佐谷文兵衛といわれいている。
十村役制度廃止の明治3年(1870)まで、敷地面積1300坪の役宅があった。



十村役太田家の墓所

元は辰口支所の辺りにあったが、移されたもの。



西山古墳群・補足

能美市徳久町
(撮影日2011/5/4
2011/10/9
2011/10/21)

西山8号墳の横穴式石室は、以前
金沢市の中央公園の「石川四高記念文化交流館」の裏庭に復元されていたが、
最近能美市に戻ったという。


中央公園にあった頃の
西山8号墳石室




2011年5月、和田山古墳群のそばにある歴史民俗資料館を訪ねる。(無料で見学できる)
和田山古墳群や末寺山古墳群の資料や出土品が展示されている。見学する価値がある。
しかし、西山8号墳の横穴式石室はない。
職員にたずねたら、辰口市立博物館にあるのではないかとのこと。
辰口市立博物館にむかう。やはり見当たらない。
職員にたずねたところ、石材は確かに保管しているが、まだ復元はされていないという。
倉庫に入りきらない8号墳の石材が、裏庭に置かれているという。


辰口市立博物館の裏庭に置かれた
西山8号墳の石材


たぶん奥壁の石材だと思う。

表面は風化してボロボロになっている。




その後 2011年10月、
辰口市立博物館での秋常古墳群保存整備完成記念展示「秋常山古墳群と能美市の古墳時代」を見学に行ったら、
館内に西山8号墳の石室が復元されていた。




西山8号墳の石室模型

石材は発泡スチロールでつくられている。

本物の石材での復元はされていない。がっかり・・・・





西山古墳群配置図
 (博物館の展示から)
灰色の部分は土取りされている所で、
古墳は削平されている。

南尾根では、
弥生時代の木棺墓か土壙墓と推定される遺構と
中世の山城(西山砦)が発見された。(平成19年度調査)



秋常山古墳群とは20m程の谷をはさんで隣接している西山古墳群は、
北尾根と西尾根に築かれていて、
北尾根で15基、西尾根で2基確認されている。

墳形は全て円墳で、最大でも径20mほどで、15m前後のものが多い。
5世紀後半の築造と推定されている甲冑一式が出土した3号墳を始めとして、
6世紀前半にかけて15m前後の円墳群が築かれ、
6世紀後半には、切石積横穴式石室をもち、金銅装馬具や鋳銅製鈴付馬具を副葬する古墳が築かれたと考えられている。
弥生墓4基(残2基)  古墳17基(残14基)  欠番は5  となっている。

       
 1号墳
 円墳  径18m  切石積横穴式石室
太刀・鉄鏃・馬具・刀子・鎌・玉類・耳環・須恵器
消滅
 2号墳  円墳  不明  切石積横穴式石室 
未調査・消滅
 3号墳  円墳  不明  木棺直葬
太刀・剣・鉄鏃・甲冑・鏡・櫛
消滅  
 5世紀後半の築造
 4  欠番      西山砦土塁
 5  欠番      西山砦土塁
 6号墓  円形周溝墓  径10〜11m  6基の土壙墓
調査後、消滅
 7号墳  円墳か  不明  未調査・消滅
切石積横穴式石室
 8号墳

  石室跡が四角く残っている。
  「西山古墳群」と刻まれた石碑が立つ。
  石材は博物館に保管されている。
 円墳  径18m  調査・現存 
 切石積横穴式石室・石材移築
鉄鏃・小刀・刀子・耳環・須恵器
 9号墳

土取りで石室が半壊し、調査
現在は石が散乱している。
 円墳  (径20m)  調査後、石室は消滅  墳丘は残っている
切石積横穴式石室
鉄鏃・馬具・刀子・針・銅鏡・玉類・耳環・須恵器
 10  欠番      秋常山1号墳となる。
 11号墳  不明 弥生墓か   未調査・消滅
 12号墓
     調査・現存
9基以上の土壙墓群
 13号墳

    墳丘の上には丸石の墓がある。
 円墳 径20m   一部調査・現存
須恵器
 14号墳  円墳 径14m   未調査
 15  欠番      横穴墓とされているが確認できない
 16  欠番    横穴墓とされているが確認できない
 17号墳
 円墳  (径14m)  未調査
 18号墳
 円墳  (径14m)  未調査
 19号墳

      説明板の左側
 円墳  (径15m)  未調査
 20号墳

    説明板の右側
 円墳  (径20m)  一部調査・現存
河原石利用の埋葬施設
須恵器・鉄鏃・刀子 
 21号墳  円墳  (径15m) 調査
埋葬施設はすでに消滅                
 22号墳  円墳  (径12m)  調査・
埋葬施設はすでに消滅
 23号墳

  あやしいかも・・・・
 円墳  (径14m)  未調査 5世紀後葉〜末の築造
土師器
 24号墳  円墳  (径14m)  未調査 5世紀後葉〜末の築造 
土師器
 25号墳

25号墳のあたり(確定できなかった・・・・)
 円墳  (径14m)  未調査
南尾根土壙墓群     7基以上の土壙墓群
未調査・現存 

西山古墳群のページも合わせてご覧ください

寺井山遺跡・補足

能美市寺井町
(撮影日2011/10/9)

寺井山遺跡には、弥生時代終末期の築造と推定されている5号墓と6号墓が保存されているが、
1〜4号墓はどこにあるのか?
秋常山シンポの資料に掲載されていたので、紹介しておく。



寺井山古墳群の位置

1〜4号墳は、「位置等が特定できない消滅古墳」となっていて
×印で示されている。

薄い茶色の線で示されているのは
元あった寺井山、三道山(寺井山の北の尾根)の等高線。

現在、寺井山・三道山はほとんど削平され、道路や宅地となり、
緑色であらわされた部分(寺井山遺跡として保存されている所・三道山八幡神社のあるところ)だけが
かつての山のなごりとして残されている。






三道山はここだけ残っている

まるで古墳のようだ。
ここに三道山八幡神社がある。



三道山八幡神社

三道山の鎮守様

50数年前の松任町(現白山市)石川小学校の低学年の遠足は、
ここでお弁当を食べた!
当時は、三道山があったという。
寺井山遺跡のページも合わせてご覧ください。

下開発茶臼山古墳群・補足

能美市松が岡
(撮影日2011/9/16)

下開発茶臼山9号墳の前に説明板が立てられているというので見に行ってきた。


下開発茶臼山古墳群分布図  (説明板から)

東支群のあった場所には、現在
健康センターが建っている。
下開発茶臼山古墳群は、
標高47mの辰口丘陵にあり、平野部に向かって伸びる3つの尾根上に分布している。
東支群8基・西支群10基・西尾根支群10基の計28基が確認されている。
墳形は全て円墳で、径4〜19m。
5世紀〜6世紀の築造と推定されているが、5世紀後半のものが多いと考えられている。
鉄製武器(剣・刀・鏃)、鉄製農工具(斧・ヤリガンナ・鎌など)、土器(須恵器・土師器)、玉類(勾玉・管玉・臼玉)などが出土。
古墳群築造の始まりとなった9号墳から出土した短甲・衝角付冑や竪櫛175枚、
7号墳から出土した三葉環頭太刀などが注目される。

このHPのトップページのタイトル部の写真は、2002年9月下開発茶臼山9号墳から写したものだが、
現在は手前の林が大きくなり、同じ景色を見ることはできない。
保存されている西尾根支群も雑木が大きくなっていて見学が難しくなりつつある。
9号墳付近は、除草がなされていて、墳丘に上ることができる。

下開発茶臼山古墳のページも合わせてご覧ください。

源平ゆかりの史跡・その1
鳴和の滝

金沢市鳴和
(撮影日2011/9/13)

義父の友達の家の近くに、名所「鳴和の滝」があるというので、見学に行く。


鹿島神社の脇にある鳴和の滝

滝と云うので、どうどうと流れるものだと思っていたが、
ちょろちょろと竹の樋から落ちる一筋の水だった。


安宅の関を通り過ぎた源義経主従は、ここまでくれば一安心と金沢市鳴和の鹿島神社で休憩することにした。
そこに安宅の関守富樫泰家がやってきて、地元の酒を差し入れた。
富樫の弁慶の知恵と義経の勇気に感服しての行動であった。
その酒で義経らと富樫は宴を開き、弁慶が「これなる山水の、落ちて巌に響くこそ、鳴るは瀧の水(勧進帳より)」と延年の舞を舞った。

弁慶が舞っているそばには見事な滝が流れており、この滝は鳴和の滝と呼ばれ、ここ鳴和町の名前の由来になったと言う。
現在も鳴和の滝は流れてはいるが、残念ながらその滝に当時の面影は見ることはできない。


金沢市観光協会が立てた石碑の右上から
滝の水が落ちている。

見えないなぁ・・・。



金沢市の地図

源平ゆかりの史跡・その2
仏御前屋敷跡・仏御前墓
小松市指定文化財

小松市原町
(撮影日2011/10/9)

小松市埋蔵文化財センター(原町)の重要文化財指定記念特別展「八日市地方遺跡」を見学に行く途中にみつける。
小松市原町には、「仏御前の里」の案内板がいくつも立っている。
仏御前のことは「平家物語」や「源平盛衰記」にも載せられている。

仏御前屋敷跡

仏御前の庵があったところ


仏御前は、永暦元年(1160年)白河太夫の娘として原町に生まれた。
幼少の頃から美人で歌舞に長じて、仏を信じることが厚かったので仏と呼ばれていた。
14才のときに京に上り白拍子となり、時の権力者平清盛の寵愛を一身に集めた。
以前から清盛に仕え仏御前を紹介した祇王・祇女の姉妹は世の無常を感じて嵯峨野に尼となったのを知り、
自らも報音尼と称して仏道に精進した。安元元年(1175年)仏御前が17才のときであった。
翌年、原に帰って小庵にこもったが、治承4年(1180年)8月18日なくなった。
              (現地説明板から)


仏御前屋敷跡には3基の墓石が建っている




仏御前の墓は道路から北に上った所にあるようだ。

小松市の地図

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