更新日2017/6/18
加賀市・小松市・能美市の遺跡

2017年4月〜6月に見学した石川・加賀のあれこれをまとめました。

宮地廃寺塔心礎石
加賀市指定史跡

加賀市宮地
(撮影日2017/6/3)

篠原古戦場の南1kmの道路沿いに、石碑が立つ。
偶然発見!説明板もある。駐車スペースもつくられている。
大きな塔心礎石が残っている。

 通称「じょうじゃの釜」と呼ばれる一辺約2.3mの火山集塊岩で、
    この付近に建立された宮地廃寺の塔心礎石と推定される。
 上面の中央部には径93cm・深さ18cmの円孔(柱座)を彫り、
    さらにその中に経15cm・深さ10cmの舎利孔を設けている


 昭和50年に、付近の圃場整備に関連して、遺跡保存のための範囲確認調査。
 後世の攪乱により寺域は確定できなかったが、須恵器と多数の布目瓦が出土した。
 発見された軒丸瓦等は直径18cmの六葉複弁連華文が施されていて、
    7世紀後半のものと推定されている

 古くから心礎石のあるところを「カマンモト」といい、
   「ヨコモンシタ」「コウド」など寺院に関する地名が残されていることから、
    約100m四方の範囲に寺域が広がっていたと推定されている
                           (説明板から)

「史跡 大塔心礎石」の石碑

農地の中に、大きな石が置かれている。

一辺2.3mの石!!

石の表面はガサガサ

大きい!!

石は二つにわれている。

割れ目の脇には、
径10cmほどの舎利孔が確認できる。

加賀市の地図g

実盛塚
加賀市指定史跡

加賀市篠原
(撮影日2017/6/3)

この一帯は源平争乱の舞台「篠原古戦場」

 寿永2年5月(1183)、倶利伽羅の合戦の大勝の余勢をかって攻め立てる木曽義仲(源義仲)軍を相手に、
   敗走する平家軍の中で、ただ一騎、踏みとどまって、戦ったのが斉藤別当実盛であった。
 実盛は木曾義仲幼少時代の命の恩人だったが、
   これを秘し73才という老齢の身を侮られないよう白髪を黒く染め、名乗りもあげす戦った。
 しかし奮戦むなしく手塚太郎光盛に討ち取られ、劇的な最期を遂げてしまう。
 そのなきがらを葬ったと伝えられているのが「実盛塚」。

 伝説では、応永21年(1414)に時宗14世遊行上人が篠原の地を巡行中、
   実盛の亡霊があらわれ救いを求めたので、上人が回向したらたちまち成仏したといわれ、
    世阿弥作の謡曲「実盛」でひろく世に知れ渡っている。
 周辺には、討ち取られた実盛の首を洗ったとされる「首洗い池」や
   実盛が髪を染める際に用いた鏡を安置したと伝えられる「鏡の池」など、実盛の伝説にまつわる場所がある。
 小松市には、実盛の死を深くあわれんだ義仲が実盛着用の兜や鎧などを奉納し、
   供養を依頼した「多太神社」がある。
                         首洗い池のページ



実盛塚

航空写真で見ると、
  この塚は古墳に見える・・・



献花台に、きれいな花があると思ったら、
  なんとこの日に
   「実盛塚」の供養祭とシンポジウムがあったという。
2017/6/4の北陸中日新聞から
 6月3日、源平合戦の篠原の戦いで落命した平家の大将斎藤実盛の供養祭とシンポジウムが開かれ、
   実盛の子孫と、実盛を討った源氏側の子孫が初めて一堂に会し、供養などに参列した。
 実盛は寿永2年(1183)、篠原の戦いで、源氏側の木曾義仲の軍に攻められ、
   義仲配下の武将手塚光盛に討たれた。

 実盛塚は亡きがらが葬られた場所とされる。
   供養祭には実盛の子孫、長井昌一さんと義仲の子孫、木曽義明さん、
    光盛の子孫の手塚真さんの三人がそろって参列。
 地元関係者ら計50人が焼香などをし、実盛塚に手を合わせた。

 片山津温泉では、「実盛 追想〜未来へ」と題したシンポジウムが開かれ、約300人が参加。
 子孫の3人もパネリストに加わった。

子孫の一人の手塚さんは、漫画家・故手塚治虫さんの息子さんだということだ。
グッドタイミングの見学となった。

気多御子神社   
    左門殿古墳 補足

小松市額見町
(撮影日2017/4/29)

小松市の三湖台古墳群の一つ「左門殿古墳」を見学して、
この塚の主といわれている「瀧川玄蕃左門」をインターネット検索したところ、まんが日本昔ばなしの「草かり亀」が出てきた!
       ( 左門殿古墳のページ )
瀧川玄蕃左門が社守をしていたという額見町の気多御子神社の境内には、雑草が生えないという伝承があるという。

「草かり亀」
延宝年間、社守の六兵衛が淵に入って禊をしていると、
   淵に住む大亀が出現し、襲ってきたので捕えて殺そうとすると、
     大亀は、末代まで境内の草を取り除く事を約束したので放免にした。

気多御子神社は瀧川玄蕃左門の子孫が代々社守をしていて、
  昔ばなしに出てくる六兵衛さんは、四代目子孫の「瀧川六兵衛」さんだそうだ。

  気多御子神社
 祭神は大己貴命(気多大神)を主にして、菊理媛神(白山大神)、天照皇大神(神明大神)

 以前は「神明宮」と称せられ、上古より気多の神奈備に鎮座され、延喜式式内社に列せられた。
 長保・寛弘のころは華山法皇の崇敬が厚く、佛生寺」と命名された。
 江戸時代には、歴代藩主の崇敬が厚く、3代利常公には社殿の再建、神領の寄進等特別の保護を受け、
   社守には加賀藩士瀧川玄蕃左門氏およびその子孫がご奉仕されていた。

 このあたりは「額田の郷」と称されていたが、いつしか「額見」といわれるようになり、
 150戸あまりの大集落だったが、安政4年の大火で村民が離散、15戸ほどとなってしまった。
 今は、文化・経済が発展し新しい町として繁栄している。
        「宮司・藤峰雅行」               (説明板から抜粋)


「式内 郷社 気多御子神社」と刻まれた石碑

「華山(花山?)法皇云々」と刻まれた石碑もある。

長い参道 りっぱな神社である。

石造りの「草かり亀」?

大亀が住んでいたという淵は、鳥居をくぐった右側の境内社・天満宮(菅原社)の所にあった!!
池は干上がっている!!


小さな社殿に小さな架け橋がある。

大亀がいるような大きな淵ではない・・・
 天満宮(菅原社)は平安中期の創建と伝えられている。勧学の神様。

確かに草はあまり生えていない?!

小松市・能美市の地図g

串茶屋の遊女の墓
小松市指定文化財

小松市串町
(撮影日2017/4/29)

串町の墓地の一角にある。
六地蔵の覆い屋の中に「遊女の墓」のパンフレットが置かれていた。

 串茶屋とは
 前田利常が小松城に隠居(1640)して後、
   那谷寺再建にかかる職人の往来など、北国街道の宿場・休み茶屋街として成立。
 1660年(万治3年)に大聖寺藩領となってからは、
   加越能3州で唯一の公認茶屋として発展し、文化・文政期(1804〜)に最盛期を迎えた。
 多くの商人・文人たちが社交の場として集う中で遊女たちは、文化交流の仲立ちにも大きく貢献したとされる。
 串茶屋遊女の墓
 串茶屋の墓地は3回も場所を変えていて、
  現在の場所に移されたのは、文化・文政(1804〜1829)のころといわれている。

 墓塔の石材はすべて凝灰岩で、主に地元の観音下石(カナガソイシ)・滝ヶ原石が用いられているが、
  福井県産の笏谷石もみられる。

 形状は大小さまざまであり、個性的で造形的にも優れたものが多く、近世の石造資料として重要。
 碑文には法名に加え、源氏名が俗名として刻まれており、多くは廓の楼主の建立と考えられる。

 当時の遊女は、死後の扱いは哀れなものだったが、
  串茶屋の楼主は、養女としてその家の墓所に墓を建立し、菩提を手厚く葬った。
 真宗の信仰心が厚い地域性を反映している。
                          (現地説明板・パンフレットから)


遊女の墓 見取り図



「遊女の墓」として、個人単独の墓は全国的にも珍しい。

平成21年に34基の墓が小松市指定文化財になる。

茶問屋寄進の六地蔵

串茶屋村の池田家は、
 大聖寺藩の命により元禄2年(1689)から6代120年間に亘り、
  串郷の十村を勤めるとともに茶問屋を営業した。

この六地蔵は
 4代目甚五郎が1770年跡継ぎの男子が相次いで夭折したので
  供養のため建立した。
 六地蔵の由来
 仏教の六道輪廻の思想では、死んだあと49日を過ぎると、
  六道と呼ばれる地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六つの世界のどれかに生まれ変わってきた。
 地蔵菩薩はこの六道全てに姿を現すことのできる唯一の仏様で
  六道に生まれ変わったすべての生き物に教えを説き、救いに手を差し伸べてくれる。
 死んだ肉親、知人たちが六道のどこに生まれ変わっていようとも、
  是非その人を救ってくださいと願って六地蔵が作られるようになった。
 また安置される場所は墓地の入口が圧倒的に多く、
  死者の世界と現世との境に立って悪霊などの侵入を防いでいる。


近くの神社の見学
串八幡神社には、参道にずら〜っと、石造物が並ぶ。

 串八幡神社

境内

「憲法発布記念」の石造モニュメント

さすが!! 石文化の小松市を実感できる。

王院館遺跡

小松市今江町
(撮影日2017/4/29)

今江町の大きな墓地の駐車場に「王院遺跡」の石碑がある。

 花山法皇が北陸巡行の折、この地をこよなく愛し3年間住まわれて里人との親交が深まったという。
  この館からたびたび三湖台に登られたことから、御幸塚と呼ぶなど、
   このあたりに「王子の宮」「王子内」の地名となってその名残をとどめている。
                                (説明板から)

王院館遺跡

後ろは墓地の駐車場

小松市で一番大きな墓地だそうだ。

王院館遺跡のそばには、今江春日神社がある。

 今江春日神社
 五郎座貝塚や多くの古墳があることから、今江の発祥は、小松市内でも古い方である。
 今江の氏神である。
 花山法皇が、王様屋敷に居住され、やがて別れを惜しむ村民に対し自画像を与えられ、
 王子宮春日大明神とするよう教えられたのが、この宮のおこりだとの伝承がある。

 白山社外五社を境内社として祀っている。
 1205坪あり鎮守の森を形成している。

 祭神は、経津主命(ヘツヌシノミコト)・武甕槌命(タケミカヅチノミコト)・天児屋根命(アメコヤネノミコト)
  ・比淘蜷_(ヒメオオカミ)・石凝姥命(イシコリドメノコト)・伊弉諾尊(イザナギノミコト)
  ・伊弉冉尊(イザナミノミコト)・事代主命(コトシロヌシノミコト)・市杵島媛命(イチキシマヒメのミコト)
                      (現地・今江春日神社由来から)

南西側の入口に鳥居が2つ!

南東側の入口にも鳥居が2つ!

石の鳥居がなんと4つ。この神社も、石文化の小松市を感じさせる。

遺跡ではないけど・・・ 小松バラ園

小松市末広町
小松運動公園内

(撮影日2017/6/3)

北陸中日新聞に小松のバラ園が見頃だとという記事が出た。
去年も行ったのだが、遅すぎて、ほとんど花がなかった。

小規模ではあるが、いろんな人たちの努力できれいなバラが育っている。

来丸古墳群
広い意味での来丸古墳群の1支群

能美市来丸町
(撮影日2017/4/25)

能美市来丸町の物見山陸上競技場の北側の来丸物見山古墳群の前に説明板が立っている。
2016年4月に新しい説明板が立てられた。

広義の来丸古墳群の中の来丸古墳群の見学。
陸上競技場の東側の遊歩道の中に残っている。

来丸古墳群の全体については、来丸古墳群のページをご覧ください。

来丸古墳群の配置図 (説明板から)

来丸古墳群
1号墳 円墳 径16m・高さ2.5m
2号墳 円墳 径21m・高さ2.5m 幅3〜4mの周溝あり
半壊
3号墳 円墳 径9m・高さ1.5m 半壊
4号墳 円墳 径15m・高さ1.5m 半壊

5世紀後半〜6世紀前半の築造と推定されている。

来丸古墳群は4基確認されているが、墳丘の北側が削られているものが多い。
道路を造ったせいだと思う。

1号墳  径16m・高さ2.5mの円墳

2号墳  径21m・高さ2.5mの円墳   幅3〜4mの周溝あり  半壊

墳丘 周溝跡も確認できる。

墳頂
3号墳  径9m・高さ1.5mの円墳   半壊



4号墳  径15m・高さ1.5mの円墳   半壊

写真だとよく分からないが、配置図通りに4基の古墳を確認できる。

辰口八幡神社(古墳群)

能美市来丸町
(撮影日2017/4/25)

来丸古墳群の西約400mの辰口八幡神社境内に古墳が2基あるという。。

辰口八幡神社1号墳 円墳 径10m・高さ1m 墳裾部のみ残存
辰口八幡神社2号墳 円墳 径8.5m・高さ2m 一部損壊

  


辰口八幡神社 高い所にある。

辰口八幡神社社殿

社殿横の高まり

墳丘かな?

墳丘の確定はできなかった・・・。

辰口ましじ山古墳というのもあったが、消滅していると聞く。
能美市辰口中央小学校の西側に「ましじ広場」と名付けられた公園があった。


「ましじ広場」
辰口ましじ古墳の跡地か?

東側(右側)は辰口中央小学校グラウンド

古墳のような高まりは、
  土管のトンネルのある築山である。


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