更新日2017/11/4

御経塚遺跡
八日市遺跡現説ほか
2017/6/17・10/1・10/29
御経塚シンデン古墳群
御経塚シンデン遺跡
(御経塚遺跡)

野々市市御経塚
撮影日2017/6/17

金沢ペーパーショーに行った帰りに、御経塚遺跡の見学。
御経塚遺跡のあたりは、以前はたんぼだったが、
    現在、イオン御経塚店(旧SATY)や住宅街となり、御経塚があったあたりだけ経塚公園として残されている。

公園入口に、「御経塚シンデン古墳群/御経塚シンデン遺跡」という説明板がある。

 御経塚シンデン遺跡は、弥生時代後期後半から古墳時代初頭までつづいた集落跡で、
  複数の竪穴建物や掘立柱建物がみつかっている

 
その後、集落は移動し、古墳時代前期(250年ごろ~300年代)には首長権の継承を示す古墳群が造営された。
  前方後方墳4基と方墳11基

 古墳の周溝は確認されているが、墳丘と埋葬施設は後世の削平によって失われている。
 周溝から壺などが出土している。



遺構位置図


現在地周辺だけ公園、
   他は住宅やお店が建ち並んでいる。




水田の下から姿を現した前方後方墳(ST01)
(説明板から)

古墳の周溝から出土した土器
(説明板から)

公園と説明板

古墳らしい高まりは、単なる築山だ・・・。


経塚  公園内にある。

御経塚町の地名の由来である経塚の付近には、
 その昔、天台宗の眞願寺という大きなお寺があり、
 火災で消失したので、お経を埋め、塚にしたことや、
 女性が塚に上がると、
    子どもが産めなくなると伝承されてきた。

金沢市の地図g

次は、
能美市辰口アーティスト村で開催されている「里山のアートフェスタ」に行き、その帰り道に寄った遺跡の紹介。


里山アートフェスタ パンフレット

新聞に記事が掲載されていたので行ってきた。

こじんまりとした、ほのぼのするようなフェスタ

一角にある「さとやまカフェ」で
オムライスの昼食



和気の岩
ワケノイワ

能美市和気町
撮影日2017/10/1

新聞に記事が辰口丘陵公園から南西へ約1.5km、加賀産業道路沿いに「寄り道パーキング和気の岩」があ.る。

能美市・小松市の地図g

 和気の岩は、約2000万年前~1700万年前の新生代に火山活動によって露出した流紋岩
 熱い溶岩が地表近くで冷えていく過程で徐々に体積が減少したことで、
   周りの岩石と間でのひずみができた結果、割れ目ができる
節理が見られる。
 当時、北陸地方はアジア大陸と陸続きで、まだ日本海や白山は存在していなかったといわれている。

駐車場から見た和気の岩

標高差数メートル。険しい(?)岩山を登る・・・。

溶岩が流れている感じがする・・



岩山の頂上から麓を見る




左は駐車場  右はドッグラン

大きな道路からすぐの所に、こんな岩山があるとは、気がつかなかった。
石川テレビ「リフレッシュ」で紹介されていた。

遣水観音霊水

能美市仏大寺
撮影日2017/10/1

能美市仏大寺(ブッダイジ)の集落から山間の道を南に約1km。遣水観音霊水がある。
駐車場は10台以上停められる広さ。たくさんの人が水を汲みに訪れる。

 史跡 遣水観音山
 能美市仏大寺と小松市の境にある観音山は、別名 遣水山とも呼ばれ、
  白山につらなる山々の中でも一孤峰で、
  古代(奈良・平安時代)から白山信仰の霊場となり、
  観音堂を建立して修験者の拠点として栄えていた。
 その観音堂の明かりが古くから海上の目標とされ、猟師や北前船の航行者に崇拝されてきた。
 明治中頃までは、女人禁制が保持されてきた霊地だった。
 観音山の中腹にある観音堂本殿は昭和29年に新築されたもので往時の姿を偲ばせるものはないが、
   安置されている
木造「十一面観世音菩薩立像」
   
奈良白鳳期(7世紀後半)の泰澄大師(白山開山の祖)の作と伝えられていて、
   白山信仰のために、この観音堂を拠点としていたことを物語る貴重な資料である。
                   (説明板から)

遣水観音 霊水堂

龍頭の口から水が出ている。

一帯は公園になっている。澄んだ流れだ!
  仏大寺町では、1363(貞治2)年、大源宋真が仏陀寺を開き、引き継がれていったが、
   16世紀に一向一揆や戦乱で廃絶してしまった。
  現在は集落名にその名を残すのみで、建物跡も発見されず、まさに幻の寺となってしまった。
                 (仏大寺町内にある説明板から)

遣水観音霊水堂の後ろに、観音山への登山道がある。
中腹にある観音堂までは、約800m、徒歩30分だそうだ。

石川文化財ナビによると、この観音堂の近くに「仏大寺とうの池古墳」があるという・・・。
どんな古墳なのだろうか?登って確かめたいなぁ・・・

灯台笹遺跡
トダシノイセキ

能美市灯台笹町
撮影日2017/10/1

石川県の発掘関係の書物を見ていると、必ず出てくる「灯台笹遺跡」。
しかし、情報は少ない。

 能美市灯台笹町の山あいに先土器時代の遺跡がある。
 
灯台笹遺跡は、手取川南岸に広がる能美丘陵の東部に、
   手取川扇状地の扇頂部に面した標高110mの台地上に位置している。
 昭和36年、当時高校生だった田中勲さん(灯台笹町在住)によって発見された県内最古の先土器時代の遺跡。
 昭和45年の発掘調査では、約1万7千年前の石器10数点が発見され、博物館に展示されている。
発掘調査で出土した石器

左から 長さ5.6cmのナイフ型石器
     長さ11cmの掻器
     長さ8.5cmの縦長剥片
     長さ8.4cmの槍先形尖頭器
      (灯台笹遺跡のふもとの道路脇にある説明板から)

山あいの道路脇に説明板があるので、
   灯台笹遺跡がここなんだとわかる。


背後の山を数分登ったところ。


灯台笹遺跡

山の中にも説明板。

はげた説明板は直してほしいかな・・・。

加賀市八日市遺跡現説
参加報告

加賀市八日市町
撮影日2017/10/29

10月27日の北陸中日新聞に現地説明会の案内が掲載されたので、小雨の中、出かける。
現説が始まった頃には本格的な雨・・・。

弓波遺跡現地説明会の時に行った白水の泉公園のすぐ南が、発掘現場だ。

白水の泉公園

蓮如上人が、大地に杖を突きさしたところ、
       そこから水晶のような透き通った水が涌きだした。
それ以来、この井戸を「白水の井戸」と呼ぶ。

蓮如上人500年遠忌にあたり、平成9年
この隣にある鹿野酒造が井戸を復活させ、仕込み水として酒造りを行った。
加賀地方の一部に生息する希少種のホトケドジョウも保存している。
そばの田んぼでは、酒造りに使われる「山田錦」が育てられている。

今回の発掘現場は、この写真の左手前(南東側)となる。

加賀市の地図g


八日市遺跡とその周辺

JR加賀温泉駅の東1.8km、
 柴山潟に流れこむ八日市川右岸の低地。


西隣りには弓波遺跡、北側には猫橋遺跡がある。






現説の様子

左・4号住居  右・5号住居

 八日市遺跡は北陸新幹線の建設に伴い発掘調査。
 調査の結果、八日市川に流れ込むとみられる小川を確認し、
   その北岸に古墳時代前期ごろの集落が営まれていたことが明らかになった。  

           調査区の概要   (住居とは竪穴建物  掘立とは掘立柱建物のこと)
 
 これまでに、古墳時代前期の竪穴建物6棟以上、掘立柱建物9棟が見つかっているほか、
   川跡からは大量の土器と木製品が出土した。
 中でも竪穴建物の4号住居では、小型の炉跡5基が確認され、銅鏃の未完成品が2点出土したことから、
   小型銅製品を鋳造・生産した工房だったと考えられている。
 この時期の鋳造炉を伴う工房の確認例は極めて少なく、
   当時の銅製品鋳造技術や地方での生産の実態を考える上で、重要な発見となった。
 このほか焼失した竪穴建物5号住居では、鉄滓が出土しており、鍛冶が行われていたことも推定されている。

中央 1号住居(竪穴建物)


1号住居に5号掘立柱建物が重なっている。
奥には2号住居と3号掘立柱建物が重なっている。
 3号住居  溝をもつ竪穴建物

手前の三角が3号住居  溝をもつ竪穴建物

現説資料から
 4号住居(竪穴建物)   小型の炉跡5基が確認された建物
   小型銅製品を鋳造・生産した工房だったと考えられている。
  炉跡は直径20cm、深さ4.5cm。灰と炭が多く、底には焼土があった。
  一つの建物跡に5基が確認された。
  銅鏃の未完成品2点は、長さ4cmほどで、先端がともにとがっておらず、加工の途中だったとみられる。

中央が4号住居

4号住居の小型の炉跡  雨のため水没している

現説資料から

出土した鏃 (現説展示から)  長さ4cmほど
 5号住居(竪穴建物)
  4号住居に隣接していて、焼失したとみられている。
  鉄滓(鉄を精錬する際に出る不純物)が出土したので、鍛冶が行われていたと考えられている。

5号住居 その奥に4号住居・7号住居がある。

5号住居 柱が残る柱穴
 川跡  水が涌いていて、小川となり、八日市川に流れこんでいる。
   川から出土した木製品には、漆が塗られた容器や火おこしにつかわれたとみられる火きり臼、建築部材や
     祭祀に使われたとみられる桃の種もたくさん出土している。
  川底には石が敷き詰められている所があって、足が沈まない構造になっている。
    そこで、涌き水を汲み、祭祀を行っていたと考えられている。

左手前に建物跡がある。

石が敷かれている辺りは、木片がまだそのまま

そのほかの展示品の一部を紹介。




出土した土器

出土した土器

火おこし用のもの

柱穴に残っていた柱根

この時期の鋳造炉を伴う工房の確認例は極めて少ないという事で、
  現説の翌日には、九州から専門家を呼んで視察してもらうという事だったが、どうなったのだろうか・・・

隣りの弓波遺跡と合わせ、総合的に意義を考えていかなければならない遺跡だと思う。

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