更新日2018/12/28

東大寺領横江荘遺跡
2018/8/11・10/14
・10/21・11/6

地元・石川県加賀の最近の話題あれこれ・・・・

地図g

東大寺領横江荘遺跡

白山市横江町
(撮影日2018/10/14
・10/21)

2018年10月14日に、白山市民交流センター(白山市役所内)で
平安のドラマ・横江荘は語る 東大寺領横江荘遺跡 立荘1200年記念シンポジウム」が開催された。

シンポジウムの様子

参加者は200人以上。


基調講演1「東大寺と横江荘」大阪歴史博物館長 栄原永遠男氏
基調講演2「古代の掘立柱建物官衙と寺院」島根大学法文学部教授 大橋康夫氏
シンポジウム「横江荘のナゾにせまる」
  パネリスト 吉岡康暢(国立歴史民俗博物館名誉教授)  栄原永遠男氏 
      大橋康夫氏 田嶋明人氏(白山市文化財保護審議会委員)

 「酒人内親王献入帳」について
 宮内庁正倉院には「酒人内親王献入帳」(弘仁9年[818])が所蔵されている。

正倉院文書に書かれた
  横江荘

 (抜粋)
 (パンフから)
 この献入帳には、美濃国厚見荘、越前国横江荘、越後国土井荘を、娘の朝原内親王の遺言により、内親王と桓武天皇の御魂をなぐさめるため、春秋の金剛大般若経輪読会の経費として施入したと記されている。
 弘仁9年3月27日、朝原内親王の遺領であった「厚見荘」「横江荘」「土井荘」を東大寺に寄進したのは、桓武天皇の腹違いの妹で、唯一の妃であった酒人内親王であった。

この文章に出てくる越前国横江荘跡が、現在石川県白山市横江にある。

横江荘遺跡全体図
 (シンポジウム資料から)

現在、赤枠で囲まれたところが、
 国指定史跡となる。

昭和47年に、
 荘家跡地区が国指定史跡となる。
平成18年上荒屋遺跡地区
平成28年に残りの部分が追加指定された。



 発掘調査の経過
 昭和45年、鉄工団地の造成予定地は以前から「ソウエン」と呼ばれ、
   横江荘跡があるのではないかと一部の郷土史家より指摘されていたため、
   鉄工団地造成前に、埋蔵文化財の確認調査が実施された。
 調査の結果、
   「三宅」と書かれた土器と共に、掘立柱建物やこれに付随する建物の跡が発見された。
 この調査の成果から、
   これらの建物が818年に酒人内親王から東大寺に寄進された横江荘の荘家跡と判明した。
 このため、3,948.23uが昭和47年国指定史跡となる。(荘家跡地区)
 その後、史跡の周辺で多くの発掘調査が行われ、
   収穫された稲穂を保管した倉庫の跡が多数発見
された。
 これらの倉庫は条里制に基づき、間隔を置いて計画的に配置されていた。
 古代では倉庫が集まったエリアを倉院と呼んでいた。その規模は6町(654m)、南北(545m)。
 横江町に隣接する金沢市上荒屋地区では、昭和60年〜平成元年の発掘調査で、
  条里制に基づいた土地を区画する溝跡、
  小型の舟が入ることができる運河の跡や倉庫の跡、
  その倉庫を管理する荘家跡などが発見
された。
 この運河の跡からは、文字が書きこまれた大量の墨書土器や木簡、
  まじないに使う人形・斎串などが出土
した。
 これらの出土品から、この辺りに「綾庄」という荘園があり、
   その後「東庄」になったことがわかる。(上荒屋遺跡地区)
 平成20年、工場建設に伴う発掘調査で、
   南北両側に約50mの回廊を配置し、南側に門があり、
   中央に庇を持った7間×2間の主殿がある建物跡が発見
された。(中央地区周辺)
 周辺ではこれまでに、五重塔のミニチュアの陶器(瓦塔)や
   都で作られた高級な香炉、鉄鉢とよばれる仏器が多数見つかっていたことから、
   大型建物跡は寺跡とも推測されている。
 平成28年、倉庫群、回廊状建物跡を含む53,923.89uが国指定史跡に追加指定された。
 それに伴い、荘家跡と上荒屋遺跡も、東大寺領横江荘遺跡と名称変更となる。

遺跡は確認されたが、横江荘がどのように成立し、発展し、衰退していったかは、謎の部分が多い。
五重塔のミニチュアの陶器(瓦塔)が、上荒屋遺跡地区と、回廊のある中央地区で見つかっているが、
  ここに寺院はあったのか?など
いろいろな可能性が、考えられている。
国指定史跡の指定を受け、白山市が土地の取得をしたらしいが、この活用はどうするのか?というのも大きな問題だ。

東大寺領横江荘遺跡誕生1200年を記念して、地元の白山市横江町では、
   2018年、年間を通じて「荘園まつり」事業が行われている。
古代米(黒米、赤米)の田植えを行い、
  夏は白山市指定無形民俗文化財「横江の虫送り」にて太鼓と松明による害虫駆除と秋の豊作の祈願し、
  事業の集大成として、収穫した古代米を、平安時代の人々を想いながら、奈良の東大寺へ献米するそうで、
このシンポジウムの翌日、横江町の代表者が、東大寺まで行ってくるそうだ。

 東大寺領横江荘遺跡・荘家跡地区  撮影日2018/10/21
昭和47年 最初に国指定史跡となったところ
 東大寺領横江荘遺跡・中央地区  倉庫群、回廊状建物跡   撮影日2018/10/21
平成28年、国指定史跡の追加指定されたところ
2018年10月 あたりはセイタカアワダチソウの群生する空き地となっている。

正倉院所蔵の1200年前の古文書に「横江荘」の名前が書かれていて、そこから横江荘が見つかったというのが、すごい!

平安初期(822年ごろ)に記された仏教説話集「日本霊異記(ニホンリョウイキ)には、
 加賀の古代を彩る悪女の横江臣成刀自女(ヨコエノオミ ナリトジメ)が出てきて、
 その子・横江臣成人は、母の罪を償うために仏を作り、写経をして供養し、母を救ったそうだ。
説話の主人公としての「横江臣」だったが、
 金沢市畝田寺中遺跡で、「横江臣」・「語成人」と書かれた木簡が出土したことから、
 「横江臣」が実在したことがはっきりした。 (悪女の話は別にして・・・。)

東大寺領横江荘遺跡 上荒屋遺跡地区
金沢市埋蔵文化財センター展示から

金沢市埋蔵文化財センター
金沢市上安原南

(撮影日2018/10/21)

東大寺領横江荘遺跡の上荒屋遺跡地区は金沢市にある。

上荒屋遺跡
  (撮影日2010/3/12)

詳しくは こちらをご覧ください
 上荒屋遺跡のページ

 金沢市埋蔵文化財センターでは、企画展「上荒屋遺跡展」が開催されているので、見学に行く。
上荒屋遺跡で出土した遺物は、石川県指定文化財となっている。

 上荒屋遺跡地区の出土品 (抜粋)  石川県指定文化財

土師器 須恵器
右側は瓦塔

左から祭祀具(素文鏡 鈴など
貴人・役人の革帯の装飾品
右側は 皇朝銭「和同開珎」「神功開宝」

木製椀・皿 須恵器壺
灰柚陶器碗 灰柚陶器碗 土師器皿


轡 鞍 (馬具)など

墨書土器
田宮(地名) 成女(人名) 諸刀(人名)

墨書土器
道(人名) 山人(人名) 廚上(施設)
綾庄(荘園) 庄(荘園) 田上(地名) 宅(施設)

墨書土器
南庄(荘園) 北庄(荘園) 東中家(荘園)
東庄(荘園) 西庄(荘園) 東仲(荘園)

墨書土器
門(吉祥句) 廣(吉祥句)
金(吉祥句) 可(吉祥句)

形代
穢れを移し川に流すことで
穢れを祓う祭事に用いられたと
考えられている。

木簡
上荒屋遺跡では、
大小合わせて計57点の木簡が出土している。

全て運河跡から出土しているので、
不要になった木簡を運河に投棄したと考えられている。

瓦塔は、奈良〜平安時代にかけて作られた土製の塔。五層もしくは七層のものが多く、
   1.5〜2mの高さのものが通例で、木造仏塔の代替として安置し、信仰の対象としたとされる。


金沢市埋蔵文化財センター
外観

金沢市埋蔵文化財センターでは、このほか「金沢縄文ワールド」と称して、
国史跡チカモリ遺跡出土の柱根や高度な技術を示す中屋サワ遺跡出土品(重要文化財)をとおして、
金沢の縄文時代の世界を体感できる展示室がある。


巨木の文化 チカモリ遺跡のイメージ空間
チカモリ遺跡では、
クリの巨木を環状にめぐらせた木柱列が見つかっている。


黒と赤の世界 中屋サワ遺跡出土の遺物(抜粋)
木胎鉢 木の素地に赤漆をかけた漆器
中屋サワ遺跡では
弓、容器、掘り棒、杵などさまざまな木製品が出土した。

金沢市埋蔵文化財センターでは、他にも堅田遺跡・寺中遺跡・三小牛ハバ遺跡などの出土品の展示もある。

「瓦塔」片に女子像
末松廃寺の至宝

白山市市民交流センター
(撮影日2018/11/6)

2018年11月1日の北陸中日新聞に、「全国初、野々市・末松廃寺で女子像が描かれた瓦塔が見つかった
という記事が載った。
東大寺領横江荘遺跡でも、瓦塔が見つかったという話を聞いたばかりだったので、グッドタイミングだった。



末松廃寺 塔跡


詳しくは こちらをご覧ください。
  末松廃寺のページ


11月6日、野々市図書館で本物が展示されていたので、さっそく撮影!
     (「学びの杜ののいちカレード開館一周年特別展 末松廃寺の至宝」)

 末松廃寺の至宝
 今回見つかった土製品は、平成30年度に実施した、中門を確認するための発掘調査で見つかった。

天女が描かれた
  瓦塔片


縦19cm
横9.5cm
厚さ1.5cm
板状の土製品

天女イラスト
 今 回発見された土製品は、瓦塔の一階にあたる部分で、
   描かれている女性は裳(モ)と呼ばれるロングスカート状の衣服を身に着け、
   つま先が跳ね上がった履(鼻高履)をはいている。
 払子(ホッス)と呼ばれる道具を手にしていて、弥勒菩薩に仕える天女を描いたものと考えられている。
 瓦塔は、9世紀頃を中心に作られたもので、、
   木造の塔を模してつくられた高さ1.5m〜2mほどの土製の小塔。
 実際に寺院に塔を建てる代わりに安置され、信仰の対象とされたと考えられている
 末松廃寺では、これまで7点の瓦塔片が見つかっている。
  いずれも小片だが、屋根に葺かれた瓦や柱などが表現されている。
  柱を表現した部分はベンガラで赤く塗られている。


今までに発見された瓦塔片
(説明板から)
 末松廃寺は、7世紀後半に建立された北陸最古級の寺院
  昭和14年に国史跡に指定された。
  昭和36年、地元住民が寺域内で和同開珎銀銭を発見し、
 これを機会に史跡整備を前提にした発掘調査が行われ、
   金堂を西、塔を東に配置した法起寺式の建物配置で
   7世紀後半(白鳳時代)に建立され、8世紀なかごろ(奈良時代)に建て替えたと考えられている。
 また金堂の周囲から大量の瓦が出土し、能美市の湯屋窯跡で焼かれたことがわかった。
 昭和46年、史跡公園として整備完成し、平成26年度からは再整備に向けて発掘調査が行われている。


末松廃寺遺構全体図
金堂を西、塔を東に配置した法起寺式の伽藍
(説明板から)

2018年12月11日、中門跡と考えられる柱穴の列も
   発見されたと発表された。
柱穴は、天女像の描かれた瓦塔片の発見場所の
   そばで見つかったが、これは、
   8世紀中ごろの立て直しの時の
   中門跡と考えられている。

  

二日市イシバチ遺跡の古墳群 野々市市二日市
撮影日2018/8/11

二日市イシバチ遺跡では、古墳が発見されたそうだ。
この地は現在、「つばきの郷」という住宅街になっている。

つばきの郷公園

新幹線の高架建設とJR線路のすぐ南にある。
公園入口に「二日市イシバチ遺跡」の説明板がある。


 

 二日市イシバチ遺跡は、弥生・古墳・室町時代の遺跡で、集落や古墳が発見されている
 弥生時代後期後半から古墳時代初頭の集落では、
   竪穴建物23棟、掘立柱建物15棟と建物が集中する集落の中心域が確認され
ている。
 集落の南西約150mのところでは、方墳7基が分布している。
  弥生時代後期後半から続く集落跡が大きく成長し、古墳群を形成するまでになった。
  集落の西隣りに、墓域を設けたムラの景観全体が想像できる県内でも珍しい例。
 室町時代では、
  集落が掘立柱建物、竪穴状遺構、井戸などで構成される居住域と、
  耕作域に大きく分かれている。
 居住域には、宅地割りや排水機能を持つ溝が巡らされ、計画的な集落形成がうかがえる。
遺構の状況(遺構位置図)
 (説明板から)

新幹線建設と住宅地建設、
 公園建設で
 遺跡の生の姿は
 見ることはできない。



弥生・古墳時代の集落中心地
(2012年)

竪穴建物から見つかった完形の土器
(古墳時代)

古墳(方墳)の周溝
方墳は、一辺18mと約8mの
大小2種類が確認されている。

南北方向に走る畝溝列
(室町時代)
耕作のために作られた畝溝が確認された。

   

古府縄文遺跡
金沢市指定史跡
金沢市古府町南
撮影日2018/10/21

金沢市埋蔵文化財センターで紹介されていたので行く。
現在は古府第1児童公園として整備され、遺跡自体は見ることができない。

 古府縄文遺跡は、縄文時代中期の集落遺跡
   これまで5回の発掘調査が行われ、
   地面を丸く掘りくぼめて住居とした竪穴住居跡や
   煮炊きや暖房のために石を組んで火をもやした炉跡などが見つかっている。
 遺跡から出土した縄文土器には精巧な模様が施された「古府式土器」があり、
   北陸地方の縄文時代中期中葉を代表する土器様式として広く知られている。

古府第1児童公園

説明板

市民の憩いの場として活用されている。

金沢城惣構跡
金沢市指定史跡
金沢市広坂1丁目128番外
撮影日2018/12/9

金沢市の歌劇座に観劇に行った時に、近くにある惣構跡を見る。
  加賀藩ゆかりのキリシタン大名・高山右近が築造に関わったという。

 金沢城惣構跡 (カナザワジョウ ソウガマエアト)
 惣構は、城を中心とした城下町を囲い込んだ堀や、
   堀の城側に土を盛り上げて造った土居などの防御施設
のことである。
 金沢城下町には、慶長4年(1599年)に造られた「内惣構」と
   慶長15年(1610年)に造られた「外惣構」が二重に巡っている。
 造成時の堀は深いところで約5mもあったとされ、
   土居は堀底から最大9mの高さを測ったといわれている。
 明治時代以降、防御線としての機能が失われたため、
   大部分の土居は堀の埋土として使用されて消失した。
 堀部分は、かつてより幅が狭まって用水として使われている。
 内外惣構は、金沢城から見て東西に分かれているため、
   それぞれ「東内惣構」・「西内惣構」・「東外惣構」・「西外惣構」と呼ばれ、
   その延長は約9kmを測る。
 西外惣構跡宮内橋詰遺構は、堀と土居の関係が良好に残る数少ない地点である。
   かつては幅10mあったともいわれる堀は埋め立てられて
   現在堀幅は約4m、深さは約3mとなっているが、
   堀の城側には高さ約2mの土居が残っており、堀底からの高さは約5mを測る。
 400年前の築造当時の姿ではないが、往時の惣構を後世に語り継ぐ貴重な遺構である。
      (金沢市HPから)

市役所南側(二十一世紀美術館の西側)には、西外惣構跡宮内橋詰遺構が残る。

 西外惣構跡宮内橋詰遺構 (ニシソトソウガマエアト クナイハシヅメイコウ)

ケヤキの巨木が根元の盛土と共に残り、
 かつての土居の高さを知ることができる。
橋名は、近くにいた武家の名に由来する。

高山右近が築造に関わったとの記録がある

宮内橋詰の上流側
医療センターの前の辰巳用水とつながっている。

宮内橋詰の下流側

流れが2つに分かれている。
洪水対策として近世、流れを2つに分けたそうだ。
 キリシタン大名・高山右近(1552〜1615)は、摂津・高槻城の城主の子どもとして生まれ、
   織田信長や豊臣秀吉の下で武将や茶人として活躍した。
 千利休の高弟「利休七哲」の一人に数えられている。
 秀吉のバテレン追放令に従わず、領地を没収されたが、
   利家が保護し、客将として金沢に住んだ。
 金沢に26年間滞在したといわれている。
 1614年に江戸幕府の禁教令でフィリピン・マニラに追放され、到着後まもなく死去。

金沢市の文化財保護課のパンフレット「金沢城惣構跡」が
  インターネット上で公開されているので、参考にさせていただいた。

加賀国松任城 出城之址 白山市成町
撮影日2018/10/21

自宅の近くに出城城址公園があると知り、探しに行く。
「出城之址」と刻まれた巨石の横には、由来が刻まれた石がある。
住宅街の片隅にあり、駐車場もない。
地名は成町(ナリマチ)だが、地区名は「出城地区」で、近くには出城公民館がある。

 天正5年9月、越後の上杉謙信が天下制覇をしようと、
    能登国七尾城を攻め落とし、加賀国松任城に攻め入った。
 松任城主・鏑木頼信がよく防戦したが、
  松任城の外城の成村の出城を攻め落され、ついに謙信と和睦をした。
 この地は、謙信の陣屋跡とも伝えられている。

小さな公園に石碑

石碑と、その左に由来碑

  

安田春日神社 白山市北安田町
撮影日2018/10/21

近所の紹介。近いのに行ったことなかった・・・。
社殿前にずっと佇む女性がいたので、社殿の写真はない。社殿は比較的新しい。
宮司は、「鏑木」氏、近郷の神社の宮司も兼務されている。

 祭神は
  武甕槌命(タケミカヅチノミコト)  齋主命(イワイヌシノカミ)  天兒屋根命(アメノコヤネノミコト)
  比賣神(ヒメガミ)  白山比盗_(シラヤマヒメガミ)  建御名方神(タケミナカタシン)
  應神天皇  菅原道眞
 平安時代、寛平5年(893)に、
  国司有佐王が大和奈良の春日明神の御分霊を鎮斎して山島郷の守護神とし、
  総社安田春日大明神と称されたのが、当神社の創まりである。
 鎌倉時代、承久年間(1219〜)に、
  守護職富樫忠頼の支族安田三郎惟光が、当地に居館して社殿を造営し、
  惟光の兄光茂の孫、弥二郎家朝が神田を寄進した。
 天正年間(1573〜)兵火のため社殿旧記宝物などが焼失したので、
 松任城主鏑木岩見守頼信がその荒廃を嘆き、社殿を造営し神宝を納め、支族宝蔵院永寿を別当とした。
 その後裔が連綿として奉仕し、明治維新の際復飾して神職となった。
 明治5年4月、小字南出の八幡社・高見の諏訪社・北出の菅原社・舟橋の白山社が
  当社境内に夫々移転鎮座されたが、のち大正15年に本殿に合祀された。
 明治34年9月4日、郷社に列せられ、明治39年12月29日、神饌幣帛料供進神社に指定せられた。
 明治42年11月29日、暴風雨のため老松(清龍松・弘化元年前田藩主の命名)が倒れ社殿を圧潰したので、
  翌43年11月本殿・拝殿が改築され、大正13年に社務所が建設された。
 昭和61年12月、屋根葺替を主とする、拝殿修復工事が竣工され、平成元年2月、社務所を新築した。
    (由来碑から)

鳥居

青龍松(神木)

さざれ石

橋爪の夜泣き石

山神さま跡地 旧鳥居の笠木の一部がある。

磐持石    力比べの石 重さ60kg

歴史のある神社らしく、謂れのあるものがいろいろある。

明達寺 白山市北安田町
撮影日2018/10/21

八角形の建物があるという。
夕方で、写真が暗い・・・。

 真宗大谷派の明達寺は、
  明治から昭和にわたり幾多の宗教書の著述や真宗思想の普及に努めた高僧暁烏敏(アケガラスハヤ)の生誕の寺。
 境内には敏が生涯師と仰いだ清沢満之(キヨザワマンシ)の遺徳を偲んで、
  木像を安置するために法隆寺の夢殿を模して建立した臘扇堂(ロウセンドウ)がある。
 有名な「十億の人に 十億の母あらむも わが母にまさる はゝありなむや」歌碑、
  「一期一会 秋のみそらの雲早し」句碑、
  敏と親交の深かった高濱虚子の「秋晴れや 盲ひたれども 明らかに」句碑、
  敏の弟子・野本永久の「笹鳴や 南面したる 盲詩人」句碑がある。

臘扇堂(ロウセンドウ)

十億の人に 十億の母あらむも
わが母にまさる はゝありなむや

白山市では、暁烏敏の優れた功績を讃え末永く顕彰するとともに、
 伝統文化の継承発展と21世紀を担う青少年の健全育成を図り、有為な人材の輩出を願って
 「暁烏敏賞」を設け、国内外より懸賞論文を募集している。

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