お伊勢まいりと遺跡めぐり
その2
(三重・その2)
撮影日2010/7/2〜7/4

三重県の地図g

お伊勢まいりと遺跡めぐり(三重県)その1

その1は、宝塚古墳まで。
そのつづき です。

八重田11号墳
10・11号墳は市文化財
八重田古墳群
松阪市日丘町・八重田町
撮影日2010/7/3

午後1時40分 到着

日丘町の日丘団地内に八重田11号墳が残されている。

八重田11号墳
丘陵頂部にあって、
 団地内に保存されている。
東側から

左 前方部  右 後円部

八重田11号墳実測図
  (説明板から)
全長50mの前方後円墳と考えられているが、
墳丘は判然とせず、
2基の古墳の可能性もある。

後円部墳頂から粘土塊が確認されているので
主体部は粘土槨と推定されている。


八重田古墳群分布図・昭和47年当時
  (説明板から)

八重田古墳群
 4世紀後半から5世紀後半にかけて形成された
25基からなる古墳群
で、
 昭和48年の団地造成により16基が消滅した。
 現存9基(2・3・9・10・11・21・22・23・24号墳)
 調査された古墳は9基
  
(1・7・8・12・16・17・18・19・20号墳)。
10号墳(大塚古墳)は団地外の丘陵先端にあって、
径38〜42.5mの二段築成の円墳。葺石・埴輪列を有する。
消滅した古墳でも、4号については団地の緑地として存在し8号にあった祠が祀られていて、
 そこでは現在も埴輪の細片が採集できるとか・・・・

明和町・松阪市の地図y

向山古墳
国史跡
松阪市小野町
撮影日2010/7/3

午後1時55分 到着

向山古墳は、中村川右岸の標高50mの丘陵先端にある。
墳丘は自然地形を利用しつくられた。

この雑草の向こうに向山古墳がある。
中央あたりが前方部でその向こうに後方部がある。
雨と雑草で入り込めない。この時期の古墳見学は最悪だ。

向山古墳実測図
 (説明板から)

向山古墳は、全長82.2mの前方後方墳
 前方部長35.4m・前方部幅36.4m・前方部高さ5.6m、
 後方部長東西46.0m・、南北40.0m・高さ6m
 のやや不整長方形を呈する。
   (説明板には全長71.4mとあるが、近年の測量調査で古墳の規模がはっきりした。)
墳丘には、葺石があり、壺形土器が出土。埴輪の出土はない。

主体部は大正年間(1914)に盗掘を受け、舟形の粘土槨から
鏡3・石釧11・車輪石3・鍬形石・筒型石製品2・鉄刀1・槍3などが出土している。

出土遺物などから4世紀後半の築造と推定されている。

鏡は、面径6.2cmの重圏文鏡、面径6.9cmの内行花文鏡と変形獣帯鏡
石釧、車輪石は全て碧玉製。  

おこし古墳 津市緑ヶ丘
撮影日2010/7/3

午後2時40分 到着

緑ヶ丘団地の南端の台地に公園として保存されている。
岩田川右岸の標高30mの低丘陵にある。

おこし古墳の入口

奥におこし古墳の後円部がみえる。
階段を上がって右のほうへ行くと・・・

フェンスの向こうに後円部
 その右側に前方部がある。

おこし古墳実測図  (説明板から)

おこし古墳は、全長29mの前方後円墳
後円部径20m・高さ3m
 前方部長さ11.5m・幅15m・高さ2.6m

埴輪なし 葺石なし
埋葬施設は不明
後円部中央に盗掘のくぼみがある。
後円部と前方部の高さが変わらず、くびれ部も明確ではないので、
 前方後円墳としては新しい6世紀初頭の築造と推定されている。

おこし古墳後円部


おこし古墳墳丘

左 後円部
右 前方部
形ははっきりしない
おこし古墳の北東100mの、団地の南東端の林内には、
  前方後円墳の鎌切1号墳(市史跡)がある。
馬具が出土した前方後円墳の鎌切3号墳もあった。(調査後消滅)
この3基の前方後円墳を中心に古墳群が造られていた。

津市の地図y

坂本山古墳 津市片田志袋町
撮影日2010/7/3

午後2時50分 到着

片田志袋団地東側に丘陵の一部を削り残して古墳公園として3基保存されている。

坂本山古墳公園入口

坂本山にはもともと7基の古墳があったが、
1969(昭和44)年の宅地造成のため、4基が発掘調査され、消滅。
その際、5基の中世墓も発見された。


4号墳

2号墳

5号墳

坂本山古墳群の特徴
@ 比較的小さい古墳が集まっている群集墳である。
A 4世紀終わり〜5世紀初めの築造と推定されている。
B 6号墳が方墳で、他は円墳
   8号墳と10号墳には周囲には周溝がある。
C 埋葬施設は木棺直葬
D 剣、刀子、ヤリガンナなどの鉄器や土師器の壺、器台などが出土したが、
   全体的に副葬品は少ない。
E 古墳以外に弥生時代の方形周溝墓1基と中世墓5基が発見された。
F 中世墓は一定範囲内に石積みがされ、内側に納骨器が置かれていた。

高井古墳
市史跡
津市片田新町
撮影日2010/7/3

午後3時 到着

片田団地北公園の奥に保存されている。

片田団地北公園入口

公園中央辺りに小山があり、
これが古墳かと思ったが、
単なる築山らしい。
公園北側奥の崖っぷちに石室が露出している。

高井古墳

古墳の前に柵!
見えない!
高井古墳は、岩田川沿いの平地を見下ろす丘陵の端に築かれている。
昭和31年の開墾の時に存在が確認され、県下で初めて発掘が行われた。

径14m・高さ1.5m(円墳とも方墳とも書かれていない)
石室は幅1.9mで、刀・鉄鏃・玉類・土師器・人の歯などが出土
2、3代にわたって家族墓として利用されたと考えられる。
7世紀の築造と推定されている。

古墳の裾からは、幼児のために使われたとみられる合口甕棺が発見された。

高井古墳
覗き込んでようやく見える石室


東向きに開口した石室は羨道壊失、玄室も下部しかない。




午後3時20分  コンビニ「ampm津市殿村」にて、トイレ休憩。

平田古墳群 津市安濃町妙法寺
撮影日2010/7/3

午後3時40分 到着

ピュアタウン北公園に2基、ピュアタウン地区公園に5基が保存されている。


北公園の古墳その1

北公園の古墳その2
墳頂にくぼみがある

平田古墳群は、78基が確認されている。
宅地造成に伴い全域を調査、
円墳26基、方墳13基、墳丘不明の小石室を持つもの19基を発掘調査
円墳は横穴式石室を主としており、方墳はすべて木棺直葬である。
5世紀後半〜7世紀中頃までの築造と推定されている。
35号墳からは、初期と思われる須恵器が出土、古墳群中で最古と考えられる。

17号墳は竪穴系横口式石室の流れをくむ双室墳で、有階状施設が認められる。
12号墳は磚槨式横口式石槨というレンガ状の石材を積み上げた石室形態をもつ、県下で唯一の特殊な石室を持つ。


地区公園その1

地区公園その2
 
地区公園その3 

古墳とともに同時期の土壙墓・方形周溝跡・円形周溝跡が多数確認されている。
平田古墳群の12号墳の石室は明合古墳群の横に移築保存されている

津市の地図y  

明合古墳群
国史跡
津市安濃町田端上野
撮影日2010/7/3

午後4時20分 到着

安濃中央総合公園東側に、明合古墳歴史公園として保存されている。
安濃川右岸の経ケ峰から派生する標高40mの台地上にある。
 主墳の周囲には計画的に配置された方形の陪塚5基がある

明合古墳群 配置図

   (説明板から)


明合古墳主墳 西から

主墳一辺60m・高さ10mの方墳
 南北の両辺に造り出しが付き、 造り出しを含めた全長は81m
 二段築成
墳頂部及び一段目テラスに円筒埴輪列がある
墳丘斜面には葺石がある
周囲には濠がめぐる
円筒埴輪・盾形埴輪・蓋形埴輪・家形埴輪・須恵器器台等が出土。

明合古墳主墳 南から

左側は南西の造り出し


明合古墳2号陪塚
2号陪塚は、「小塚」と呼ばれ、
現存している陪塚の中では最大で
一辺22.0m・高さ2.0mの方墳
葺石あり 円筒埴輪列あり
須恵器片が出土


明合古墳1号陪塚
1号陪塚は、ほとんどこわれているが、
発見当初の規模は、
 一辺11.7m・高さ1.8mの方墳
円筒埴輪あり 葺石あり
現在は、一辺8.0m・高さ0.7m


明合古墳4号陪塚 西から

4号陪塚は、周辺を開墾されているため、
 墳丘の形状は不明瞭
一辺16.0m・高さ1.5mの方墳

そのほか
5号陪塚は開墾などで墳丘の形状は不明瞭
一辺15.1m・高さ0.7mの方墳
埴輪片等が出土

3号陪塚は、痕跡のみで墳丘規模は不明
発見当初は、1.0m程度封土が残存
円筒埴輪、蓋形埴輪片が出土

主墳及び陪塚の内部主体・副葬品などは不明
明合古墳群は、採集されている遺物から5世紀前半〜6世紀初めの築造と推定されている。

平田12号墳 津市安濃町田端上野
撮影日2010/7/3

平田古墳群の12号墳は、明合古墳の西隣に移築復原されている。

平田12号墳
雑草をかき分けて行ったら
 石室が見れるのだろうが・・・

平田12号墳の埋葬施設は磚槨式横口式石槨と呼ばれる特異なもの
この埋葬施設をもつものは奈良県宇陀・桜井周辺に十数例確認されているくらいで、
 三重県では類例がない。
7世紀の築造と推定されている。
朝鮮半島に見られる石室に類似しているので、渡来人の墓ではないかと推定されている。
安濃町には村主・連部などの朝鮮系の地名が多く残っている。

舟塚古墳 鈴鹿市上野町
撮影日2010/7/3

午後5時 到着

鈴鹿市クリーンセンターのうしろの公園に保存されている。

舟塚古墳
周囲が削られていたが、復元整備された。

舟塚古墳は、鈴鹿川を見下ろす台地の先端部に位置している
径15m・高さ2mの円墳 
幅1.5mの周溝がある。埋葬施設・副葬品は不明
溝から出土した土器片から6世紀の築造と推定されている。

「舟塚」のいわれは、川の船着場があったからではないかといわれている。

鈴鹿市の地図y

若宮古墳
若宮八幡神社跡
鈴鹿市上野町
撮影日2010/7/3

舟塚古墳のすぐ西にある。ナビに記載されていたので寄ってみる。


若宮古墳

古墳の上に若宮神社が建てられていたということらしい。
現在は神社はない。

「石薬師魅力再発見委員会」による説明板がある。

白鳥塚古墳
県史跡
鈴鹿市加佐登町
撮影日2010/7/3

午後5時20分 到着

加佐登神社から行くと距離があるというので、北側の道路から墳丘に向かうが・・・・・。
雑草にはばまれ、説明板辺りまで行くので精一杯。

白鳥塚古墳

左に木柱が見えるので、そちらが正面と思われる

白鳥塚古墳はヤマトタケルノミコトの墓という言い伝えがあり、
ミコトが葬られたあとに白鳥となり飛び立ったという伝説にちなみ、白鳥塚と呼ばれている。

白鳥塚古墳実測図

 (説明版から)
白鳥塚古墳(1号墳)
三重県最大の円墳と思われてきたが、
 平成16・17年度の墳丘調査で
墳長80m(全長92m)の帆立貝式古墳と確認された。
後円部径64m(基檀含 77m)・高さ9m(基檀含 11m)
前方部長さ15.5m・幅27m
5世紀前半の築造と推定されている。
葺石あり 埴輪あり
円筒埴輪・朝顔形埴輪のほか、壺・きぬがさ・盾形の形象埴輪が出土。
白鳥塚古墳群は加佐登町字椎山から石薬師町字北松塚に所在、
1号墳を主墳とする計7基が確認されている。

1号墳は古くから「記紀」の記述に見える日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の墓として有力視され、
日本武尊の白鳥伝説から白鳥塚と呼ばれてきた。
昭和12 年に三重県史跡に指定された。

本居宣長や平田篤胤が、白鳥塚を日本武尊の墓とした。
明治9 年には当時の教部省も白鳥塚を日本武尊の墓として治定したが、
明治12(1879)年10月宮内省はそれを改定し、今度は丁子塚(現亀山市能褒野王塚)を治定した。
以来亀山能褒野王塚が陵墓となり現在に至っている。

能褒野王塚古墳 亀山市田村町
撮影日2010/7/3

午後6時 到着

能褒野王塚古墳周辺は「のぼのの森」として整備されている。

能褒野王塚古墳は、景行天皇皇子日本武尊能褒野墓に比定されている。
御幣川と安楽川の合流するあたりの、標高45m程度の段丘端部に所在する。


能褒野神社
日本武尊の遺徳をしのぶために明治時代に創建された神社
この奥に能褒野王塚古墳がある。

能褒野王塚古墳は 全長90mの前方後円墳
 後円部径54m・高9m  前方部幅40m・高6.5m
北勢地域最大規模の古墳
採取されたという鰭付朝顔形円筒埴輪や器材埴輪から
4世紀末頃の築造と推定されている。
これらの埴輪は,奈良県北部地域や京都府西南地域との関係がうかがえるもの。

日本武尊が東征の帰路に伊勢国能褒野で薨じたとの「記紀」記述により,
明治12年(1879)内務省によって「景行天皇皇子日本武尊能褒野墓」に定められ、
その際、墳丘の修復に併せて,畿内の王陵墓に倣い周庭帯が設けられた。
  

周囲には十数基の円墳が所在し「陪塚」とされているが,これらは後期古墳と考えられる。

鈴鹿市・亀山市の地図y

午後6時15分 今夜の宿泊地「エコノ亀山」に到着。
チェックイン後 すぐそばの「和食さと」にて夕食。

今日は一日中雨だった。ビショビショのはきものを、必死に乾かして就寝。


三日目 最終日 7月4日
午前7時45分 ホテル発

御墓山古墳
国史跡
伊賀市佐那具町
撮影日2010/7/4

午前8時25分 到着

御墓山古墳は上野盆地北東部、柘植川の左岸、南宮山北東の丘陵先端部に位置する。

御墓山古墳のある山 西から

山の左3分の2くらいが墳丘となる。
左 前方部

御墓山古墳 案内図
御墓山古墳
全長180mの前方後円墳(三重県最大)
後円部径100m・高さ14m 前方部幅80m・高さ10m
後円部の北西側に造出しあり
後円部側は周溝が残る。
二段築成(前方部側は見かけ3段)
全面に葺石あり 円筒埴輪・形象埴輪あり
内部主体の構造については不明
後円部には盗掘坑があるが、副葬品の出土は知られていない。
5世紀後半初頭の築造と推定されている。

御墓山古墳 上り口

孝元天皇の皇子で
四道将軍の一人・大彦命の陵墓であるとの伝えがある。

御墓山古墳の東側に方形の陪塚が2基ある。

伊賀市の地図y

鳴塚古墳 伊賀市鳳凰寺
撮影日2010/7/4

午前9時10分 到着

旧大山田村鳳凰寺の谷間奥にある。

鳴塚古墳全景
南側から


大山田村観光協会の立派な石の説明板を読むと
この古墳が、地元で大切にされていることがわかる。


鳴塚古墳の石室の石材
鳴塚古墳
全長37mの前方後円墳で前方部を東に向ける
後円部径21m、前方部幅16m
昔の文書によれば、かつて墳丘の周りに池があり、
後に埋められたとされることから、
周壕があったと考えられる。
後円部には南に開口した横穴式石室が露出している。

鳴塚古墳の横穴式石室

横穴式石室は
全長9.2m、
玄室長4.45m、幅1.6m、高さ1.8m以上、
羨道長4.75m、幅1.1mの右片袖式
小型の石材を丁寧に積み上げている。

小型鏡や玉類、須恵器などが出土。

伊賀市の地図y

寺音寺古墳
県史跡
伊賀市炊村字滝ノ鼻
撮影日2010/7/4

午前9時40分 到着

大山田盆地の中央部に位置する。

寺音寺古墳全景
寺音寺古墳
墳丘長60mの前方後円墳
後円部径40m 前方部幅40m
幅約20mの周湟がめぐる。
明治後期頃に主体部が盗掘されて、主体部には石積みがあり、馬具、甲、鉄器等が出土したという。
墳丘からは埴輪片も採集されている。
5世紀中頃の築造と推定されている。

大山田盆地最大で、伊賀地方でも大規模の前方後円墳だが、
前方部は水田、畑になり、後円部も中央以外は削平され、畑となっている。
周壕も埋まって水田となっていて、水田の輪郭として残っている。

三重県はここで時間切れ。

午前9時50分  伊賀市川合の「道の駅あやま」にて トイレ休憩。

甲南ICから 新名神高速道路
吹田JCTから中国自動車道で中国豊中ICまで行く。

生後50日の孫の顔を見る。
かわいいねぇ・・・・・・

前回、大石塚・小石塚の公園に入れなかったのでどこかに入口がないかともう一度行ってみる。

大石塚・小石塚古墳補足(大阪府豊中市)

今城塚古墳の整備は進んでいるかと見に行くが、塀に囲まれて全く見ることはできなかった。
いつになったら、完成するのだろうか?

その後、渋滞にまきこまれ、
午後4時30分、給油を済ませてから、ようやく大山崎ICから高速に入り、ほっと一息。
草津PA で休憩
ところが濃霧のため高速道路が渋滞、、敦賀IC(午後6時30分ころ)で高速を下りなければならないことに・・・・。
その後も渋滞、午後8時過ぎ、福井県武生のガストでようやく夕食。

帰り着いたのは、午後10時10分だった。

お伊勢まいりと遺跡めぐり   おわり

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