北村さんちの遺跡めぐり
更新日2014/11/29

滋賀県の古墳2014
その1・追分古墳ほか
2014/9/21
  

大坂に住む長男一家を訪問した翌日、滋賀県の見ていない古墳の見学。

10時ごろに、大坂府内の長男宅 出発

草津市・守山市の地図

追分古墳
草津市追分町中尾
 (撮影日2014/9/21)

以前から名前だけは知っていた追分古墳。
2007年に行った栗東市の和田古墳公園そばの出土文化財センターでもらった「遺跡散歩マップ」に場所が掲載されていた。
追分町集落の南東端にある野上神社境内にある。
駐車できる所がなかなか見つからない。


追分古墳平面図  (説明板から)

追分古墳は、径38mの円墳  (現状は径30m・高さ2.5m)

1926(大正15)年に墳頂部から、
    鏡・刀剣・斧頭・銅鏃・鉄鏃などが出土
形や大きさが分かっていなかったが、
  1982(昭和57)年・1985(昭和60)年の北側隣接地、西側隣接地の発掘調査で、
  幅5.5〜7m・深さ0.6〜1mの周溝が発見され、周溝内から多数の円筒埴輪が出土
  本来は円墳と判明した。
 4世紀末の築造と推定されている。

追分古墳全景

樹木におおわれていて、墳丘は見えない。
墳丘を削って、野上神社が建てられている。

野上神社 前の道路が丸く曲がっている。

社殿後ろに墳丘が残っている。


古高古墳群 守山市古高町
 (撮影日2014/9/21)

追分古墳から北に直線で6km、守山市古高町にある古高工業団地内に、古墳が保存されている。

古高古墳群配置図

3基とも、古墳公園として、保存されている。
  
1977年に工業団地が造成された時に
   古墳公園として保存された。
この一帯は
  弥生時代から古墳時代前期にかけての下長遺跡があって、
   有力豪族の居館や祭祀場などが発見されている。


 幸田塚古墳 コウダヅカコフン  (古高古墳群)
   幸田塚古墳は、雑草が枯れていて、裸の墳丘が見えている。
 現在墳丘が削平されて変形しているが、径10m・高さ2mの円墳と考えられている。
  主体部は木棺直葬と考えられている。
  6世紀の築造と推定されている。

北から見た幸田塚古墳

南から見た幸田塚古墳

幸田塚古墳の東に松塚古墳、狐塚古墳が保存されている。

 松塚古墳 (古高古墳群)
  径30mの円墳で、3基の中で最大。
  幅6〜8mの周濠がめぐっている。
  周濠の一部には拳大の川原石を使った葺石が残存しており、
     当時は古墳の表面が石で覆われていたと考えられている。
  周濠からは埴輪の破片や須恵器が出土。
  5世紀後半の築造と推定されている。
  昭和60年ごろまでは松の木が茂っていたことからこの名がついた。

市内最大級の円墳
かなり大きな墳丘が残っている。

周壕跡も残っている。


 狐塚古墳 (古高古墳群)
 長辺15m・短辺10m・高さ1.3mの長方形墳
   (説明板には、円墳となっているが、長方形墳と確認された)
 昭和30年ころには古墳の上に祠があったらしく形も変形しているが、
   大きな花崗岩が露出しているので横穴式石室があった可能性がある。

小さな墳丘が残るだけだ。

露出しているという石は見あたらない・・・。
形はよく分からない

工業団地造成以前は周辺が水田地帯であったため、3基の古墳が同時に観察できたそうだが、
   現在は工場に囲まれて、見通しがきかなくなった。

午後1時近くになり、ようやく野洲市野洲の「はま寿司」で昼食。

昼食後は、野洲市大岩山古墳群のまだ見ていない古墳の見学へ。

        大岩山古墳群配置図    現地説明板地図から  (2003年作成)

大岩山古墳群について   (説明板から)

 大岩山丘陵から富波の平野部には3世紀後半〜7世紀初めにかけての古墳が築かれている。 
 円山古墳と甲山古墳は1941(昭和16)年に国史跡に指定された。
 1985(昭和60)年に周辺の6基の古墳が追加指定され、名前も大岩山古墳群と改められた。

 前期  冨波古墳古冨波山古墳
 中期  大塚山古墳亀塚古墳
 後期  天王山古墳丸山古墳甲山古墳宮山2号墳

大岩山古墳群のページ

野洲市の地図

五之里古墳
大岩山古墳群
野洲市富波乙
 (撮影日2014/9/21)

五之里集落の南はずれの田圃の中の墓地が、五之里古墳だという。   説明板はない。

五之里古墳は、本来は径25mの円墳
 周辺部の調査で、中期末頃の埴輪片が出土。
 近くに2号墳が存在した可能性があるそうだ。

北から見た五之里古墳
周りより少し高いかな・・・

西側には「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑の周りに
木碑(墓?)がたくさん立っている

知らなければ古墳だとは思わない。

冨波古墳
トバコフン
大岩山古墳群
野洲市富波乙
 (撮影日2014/9/21)

墳丘は削平されてしまっているが、形と大きさを実感できるように整備されている。

 冨波古墳は 墳長42mの前方後方墳    後方部22m・前方部幅20m・くびれ部幅9m
  外周の幅4.5〜7mの溝を含めると、全長は52.4mとなる。
  高さや埋葬施設については不明。
  周壕内から、近江地域の特色をもつ古墳時代初期の甕や、
     東海地域に特徴的な丹塗り壺の破片が出土している。
 弥生墳墓から古墳にいたる過渡的な様相をもつ古墳時代前期の築造と推定されている。
 墳丘はすでに削平され、一帯は水田となっていたため、
     1982(昭和57)年の発掘調査で初めて発見された。
 また、南東側の隅では、古墳との関連が想定される円形周溝墓が確認されている。

発掘調査時点の冨波古墳 

冨波古墳出土品
                           (いずれも説明板から)

冨波古墳史跡公園

国史跡の貫録だ!

後方部から前方部を見る

前方部から後方部を見る

前方部から見たくびれ部

 南側の前方部の先端角





南東側の隅で確認された円形周溝墓が
    植え込みで示されている。

復元古墳なのだが、天気も良くたくさん写真を撮ってしまった・・・・
公園内では、少年兄弟二人が虫取りに興じている。

古冨波山古墳
コトバヤマ
大岩山古墳群
野洲市富波乙
 (撮影日2014/9/21)

冨波古墳の南の住宅街の中に公園として残されている。説明板がある。



古冨波山古墳模式図 (説明板から)
   昭和49(1974)年の宅地造成に伴う発掘調査当時

径30mの円墳 現在盛土が高さ1.5mほど残っている。

 主体部は、木棺直葬と考えられている。
      (掘り形の一部が検出された。1974年)
冨波古墳に次ぐ3世紀後半の築造と推定されている。
 明治年間に銅鏡3面が出土している。最初に三角縁神獣鏡が副葬された古墳といわれている。


三角縁陳氏作四神二獣鏡  (説明板から)
  径21.8cm  (東京国立博物館蔵)
京都府椿井大塚山古墳と同じ型の鋳型で製作されたもの



三角縁呉作三神五獣鏡  (説明板から) 
  径22.0cm  (個人蔵)
兵庫県洲本市コヤダニ古墳、伝京都府椿井大塚山古墳、
 奈良県天理市黒塚古墳、静岡県菊川市上平川大塚古墳
  から出土した鏡と同じ鋳型。
 「王氏三角縁四神四獣鏡」(径21.9cm)は、
  福岡県福岡市老司古墳、奈良県天理市黒塚古墳出土鏡2面、
     アメリカ合衆国のフリーア美術館蔵品鏡と同じ鋳型のもの。
   この鏡は1905(明治38)年にドイツ連邦共和国のベルリン博物館に寄贈されている。

西から見た古冨波山古墳

墳丘上には何もない・・


亀塚古墳
大岩山古墳群
野洲市富波乙
 (撮影日2014/9/21)

ほとんど墳丘が無くなっているが、史跡公園として残されている。

 大岩山丘陵の北西に広がる自然堤防上につくられている。

亀塚古墳実測図  (説明板から)

2007(平成19)年試掘調査で周壕が発見された。
後円部の墳丘は径33m前後で、西へ伸びる前方部があり、
  全長45m以上の帆立貝形または前方後円墳と考えられている。
古くから土取り場となっていたため、墳丘はあまり残っていない。
周壕部分は水田となっていたが、幅9mほどと想定されている。
削平されているため、段築や埋葬施設は不明
 墳丘下段と東側の畑地から多くの土器片が出土。
 円筒埴輪・朝顔形埴輪・形象埴輪などの埴輪が出土
    円筒埴輪は口径25〜30cm、底径20cm前後、基底部を含め4段前後に復元できる。
 5世紀後葉〜末ころの築造と推定されている。
 江戸時代には、後円部の墳丘が亀に似た形から、字名に亀塚の名が生まれた。


冨波古墳と亀塚古墳の位置関係 (説明板から)

冨波古墳と亀塚古墳の間に
 前方後方形の地形があり、
 この場所がなんなのかという議論がある。




亀塚古墳 東から見る
  左奥・前方部
  右手前・後円部



前方部から後円部を見る
後円部の一部しか高まりはない。

後円部の残存墳丘
東から見る

綾の森古墳につづく

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