今城塚とその周辺
その2・太田茶臼山古墳から安満宮山古墳
2012/6/24

今城塚古墳見学を終え、太田茶臼山古墳へ向かう。

2012/6/24 午後3時になってしまった。

茨木市の地図

 太田茶臼山古墳(継体天皇陵) 陪塚 大阪府茨木市太田
 (撮影日2012/6/24)

太田茶臼山古墳(継体天皇 三嶋藍野陵)は以前眺めたが、今回は周りにある陪冢を探してみる。
2基の前方後円墳を含む8基(い号・ろ号・は号・に号・ほ号・へ号・と号・ち号)と
「継体天皇 三嶋藍野陵 域内陪冢 車塚」が宮内庁管理の陪冢。
この他に宮内庁管理ではないが、8号墳も陪冢と考えられている。

継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢と号

墳長30mの前方後円墳

人物埴輪が出土。

後円部のみが「くすのき公園」内に残る。


継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢へ号
北から見る。


道路に囲まれて残っている。

宮内庁の指定になっているのは、頂上の一部だけで、
他の部分は花壇となる。


継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢ほ号

周濠と造り出しを持つ直径19mの円墳

さくら公園に保存されている2基の中の1基(東側)


継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢に号

径21mの円墳で3.5mの周壕がある。
円筒埴輪と朝顔形埴輪が出土。

さくら公園に保存されている2基の中の1基(西側)





    大田茶臼山古墳とその陪冢の配置図

継体天皇 三嶋藍野陵
継体天皇 三嶋藍野陵 域内陪冢 車塚
継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢い号
継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢ろ号
継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢は号 太田山
継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢に号
継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢ほ号
継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢へ号
継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢と号
継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢ち号 二子山

「継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢ち号」に指定されている二子山古墳は、高槻市内にあり、後で見学することになる。

 海北塚古墳
府指定文化財
大阪府茨木市福井
 (撮影日2012/6/24)

海北塚古墳を探す。近くまで来ていると思うが、よく分からず・・・・・

海北塚古墳がある辺り

林の中にあるのだろうが、入る道が分からず、
早々にあきらめて・・・次へ・・・・

反対側からしか入れないらしい。
海北塚古墳は、規模は不明だが円墳で、横穴式石室に箱形石棺が安置されている。
左片袖式横穴式石室は、全長約11m
  玄室長4.6m・幅2.5m・高3.3m    羨道現存長6.3m・幅約1.4m・高約1.8m

石室内から、
 鉄刀、鉄槍、鉄鏃、馬具(鉄地金銅張製鏡板付轡、杏葉、雲珠、辻金具)、須恵器(坏)など
墳丘上から、
 獣帯鏡、銀製鍍金勾玉、銀製鍍金山梔玉、金銅製三輪玉、須恵器(高坏、壷、ハソウ)などが出土。

 青松塚古墳 大阪府茨木市室山1丁目
 (撮影日2012/6/24)

北大阪警察病院の駐車場に駐車。  午後3時45分。
駐車場の奥に入っていくと、青松塚古墳と紫金山古墳の案内板がある。
青松塚古墳は病院の中から行くと聞いていたが、病棟の裏から行くことがてきた。
何となく道が続いていて、青松塚古墳に着く。

青松塚古墳は、径20mの円墳
円筒埴輪列があり、形象埴輪(家形、衣笠、人物)も出土
左片袖式横穴式石室は、
  玄室長3.3m・幅2m・高2.4m  羨道長3.6m・幅1.1m・高1.3m
石室内から、
 画文帯神獣鏡1・倣製乳文鏡1
 ・切子玉7・平玉1・小玉27・銀製空玉2・銀環2・銀製指輪1・三輪玉3、
 鉄刀1・鉄鉾1・鉄鏃62・鉄斧1・鉄鑿1・鉄鍬1、
 馬具(轡、鐙、雲珠、辻金具、杏葉、馬鐸、帯金具)、須恵器、土師器などが出土
6世紀前半の築造と推定されている。

1947年(昭和22年)発掘調査  (古墳辞典から)


青松塚古墳 墳丘

青松塚古墳 奥壁側も開いている。

青松塚古墳 本当の入口

青松塚古墳 羨道部から内部を見る。

青松塚古墳はすぐ分かったが、・・・・・・

すぐそばには南塚古墳(全長50mの前方後円墳)というのがあったようだが・・・・・もう無いのだろうか?
南塚古墳を探してみるがわからない。

紫金山古墳は青松塚古墳から行けるのか?  行く道が見つからず・・・・断念。

紫金山古墳全長100mの前方後円墳
  後円部径76m・高さ15m   前方部幅40m・高10m
 竪穴式石槨があり、三角縁神獣鏡など10面以上の鏡などの豊富な副葬品が出土した。
4世紀中〜後半の築造と推定されている。

 大織冠神社 将軍塚古墳 大阪府茨木市西安威2丁目
 (撮影日2012/6/24)

西安威1丁目の住宅街の北側の山にある。午後4時20分。
すぐそばまで住宅が迫っているので、石段にくっつけて、何とか駐車。
石段を上る。

将軍塚古墳(将軍山1号墳)への石段を上る。


石碑には 大織冠神社と刻まれている。
平安中期の頃から、藤原鎌足公の墓所は、初め「摂津の安威にあったが、
 後に大和多武峰に改装された」との説があり、
 それが江戸時代になって、この塚をあてるようになった。
そのために鳥居を建て、石碑を造り、石室内に祠をつくって崇拝し、
 毎年10月16日には、京都の九条家から使者が来て、
反物2千匹を持参し、お祭りをされていた。    (説明板から)

将軍塚古墳そのものが大織冠神社となっている。

横に「大織冠鎌足公古廟」と刻まれた石碑が立つ。


将軍塚古墳径約25mの円墳
 山頂を利用して造られている。
 南に開口している片袖式横穴式石室は全長約9m
  玄室長4.5m・幅1.7m・高2.4mで5枚の天井石がのせられている。
  羨道長4.5m・幅1.4m    
  丸みのある花崗岩を積み上げている。
 早くから開口していたので出土品は不明。
 6世紀後半の築造と推定されている。

将軍塚古墳 石室

石室入口には、格子戸がはめられて、覗いてもよく見えない。




将軍塚古墳の墳丘 西から

右側下に開口部がある。






 将軍山古墳
移築復元
大阪府茨木市西安威2丁目
 (撮影日2012/6/24)

将軍塚古墳の西側に、将軍山古墳の竪穴式石室がある。

将軍山古墳はもと将軍塚古墳から100m程南にあったが、宅地開発で消滅した。
 破壊前に発掘調査が行われ、その調査データに基づいて現在の場所に、竪穴式石室が移築復元された。

将軍山古墳竪穴式石室 全景

実際の石材を使って復元している。


  将軍山古墳竪穴式石室  




将軍山古墳は、全長107mの前方後円墳
 後円部径70m・高さ13m   前方部幅44m
3段築成 葺石あり 円筒埴輪あり
結晶片岩でつくられた後円部中央にある竪穴式石室は、
 全長6.4m・幅1m・高0.8mで、長さ10.14m・幅7.14mの墓壙内に築かれていた。
12枚の天井石があり、U字型の粘土棺床が造られていた。
早くから盗掘にあっていた。
 硬玉製勾玉、ガラス製小玉、碧玉製鏃形石製品、
 銅鏃、鉄鏃、鉄剣、鉄刀、鉄針状鉄製品、甲片  などが出土。
4世紀後半の築造と推定されている。

1956年(昭和31年)発掘調査、
1964年(昭和39年)に墳丘の破壊に先立ち、石室の移築が行われた。 

 耳原(ミノハラ)古墳
府指定文化財
大阪府茨木市耳原3丁目
 (撮影日2012/6/24)

耳原古墳は帝人大阪研究センターの敷地内にある。
休日で、門が閉じられていて、見学は出来なかった。(平日でも見学できないといううわさ?)

柵越しにみる
    耳原古墳のある(はずの)林




耳原古墳は 推定径30m・高さ8mの円墳
両袖式横穴式石室は、全長14m
 玄室長6.8m・幅2.4m・高3.3m  羨道長7m・幅1.7m・高1.7m
 石室内には二つの石棺が安置されている(組合式家形石棺、刳抜式家形石棺)
6世紀後半の築造と推定されている。

 鼻摺古墳(耳原方形墳) 大阪府茨木市耳原3丁目
 (撮影日2012/6/24)

周りが住宅になっていく中で、四角く残されている。
いかにも方墳だが、柵で囲まれていて、雑草に覆われていて、なにも分からない。
これから、どんな保存を考えて行くのだろうか?

鼻摺古墳 全景



鼻摺古墳は耳原方形墳ともいわれ、一辺33m・高さ5.5mの方墳
1960(昭和35)年に発掘調査が行われたが、埋葬施設は見つからなかった。
須恵器片が出土。

 二子山古墳 大阪府高槻市上土室町
 (撮影日2012/6/24)

高速道路の北側の側道を迂回させて残されている。 午後5時。
継体天皇 三嶋藍野陵 陪冢ち号 二子山」と名付けられ、宮内庁の管理となっている。

二子山古墳 南西から見る

道路をU字に曲げて、保存されている。



二子山古墳は、現状 全長40mの前方後円墳 前方部を西に向ける
 後円部径20m・前方部幅20m
 元は前方部幅30mほどあったと考えられている。
 外堤に円筒埴輪が並んでいた。
 後円部が前方部より少し高く、南側くびれ部に造出がある。
 葺石あり 埴輪あり。
  円筒埴輪・朝顔形円筒埴輪・形象埴輪(家、楯、きぬがさなど)が出土。

二子山古墳 北から見る

右側が前方部


向こう側には高速道路が通っている。
冬になり、葉が落ちると、前方後円墳の形が現れるが、今は形が見えない。

 闘鶏山古墳
国指定史跡
大阪府高槻市氷室町
 (撮影日2012/6/24)

駐車場がなくて・・・・・

闘鶏野神社

創建の年月は不詳だが、もとは八幡大神宮と称し、
      氷室の氏神として崇拝を集めたという。

闘鶏野は仁徳天皇の時代の猟場だったといわれている。
「闘鶏」を「ツゲ」と読むのは、鶏鳴が神託を「告げる」ことに由来するという。
     (闘鶏野神社説明板から)
闘鶏山古墳は闘鶏野神社の裏山にある。

闘鶏山古墳の現状

調査から5年以上経ち、
二重のフェンスに囲まれて、雑草に覆われている。


闘鶏山古墳は、墳丘全長86.4mの前方後円墳
 後円部径60m・後円部高約7m   前方部幅約25m・前方部高約4m
2002年の調査で 後円部に未盗掘の竪穴式石槨が2基あることが明らかになった。
石槨内は未調査で、古墳の保全目的で現在は墳丘内に立ち入ることができない。

前方部端部に接するように、一辺約17mの方墳がある。

時刻は午後5時半を過ぎた。
最後に墓地公園に保存されているという安満宮山古墳を見学して、帰ろうと思って、
    高槻市安満御所の町の墓地公園へ行く。
地図で見ると安満宮山古墳まで立派な道路が付いているので、簡単に見学できると思ったが、
    墓地公園の入口は閉じられていた。
車道は午後5時で閉鎖されるということを知らなかった。
入口には、「安満宮山古墳」と「安満山古墳群」の説明板があるが・・・・・
    やはり、説明板だけでは満足できない。
入口に駐車、門をすり抜け、徒歩で見学に向かう。徒歩では行ける。

安満A1号墳まで15分くらい。安満A1号墳から安満宮山古墳まで5分くらい歩く。
ジョギングやウォーキングの人たちがいる。

 安満山古墳群 大阪府高槻市安満御所の町
 (撮影日2012/6/24)

墓地公園入口に 「安満山古墳群」の説明板がある。
 安満山古墳群は、6世紀後半〜7世紀にかけて築造された大規模な群集墳
 1969年(昭和44年)、公園墓地の造成に先立ち、1帯の分布調査を実施、
    横穴式石室を持つ40基以上の円墳
が確認された。
 大部分は破損埋没しているが、なかには天井石が残り、墳丘の形状をよくとどめたものがある。

安満宮山古墳とその周辺
      説明板から



安満山古墳群・
A2号墳は 径14mの円墳で、
 被葬者は4体とみられ、堤瓶や高杯、金環、ガラス玉など多数が出土した。
この他の古墳からも、土器や馬具片、紡錘車などが出土

墓地公園の入口から1kmくらい歩くとA1号墳が保存されている。
A1号墳の説明板がある。


墓地の一角に保存された
安満A1号墳(
安満山古墳群)

大きな案内板(墓地の案内板)の後ろに
横穴式石室が露出している。
安満山A1号墳は 径12mの円墳
安満山の岩盤を削って造られている。
南に開口する横穴式石室は 全長5.1m
  玄室長2.2m・幅1.3m   羨道長2.9m・幅0.9m
  玄室の床には礫が敷きつめられていた。
  金環、鉄釘、須恵器20点以上が出土した。
石室内から鉄釘が出土していることから、木棺があったと考えられている。
出土遺物から少なくとも二人以上の人物が埋葬されていたと考えられている。 

安満A1号墳(安満山古墳群)

墳丘はかなり崩れてしまっている。
石室石材が見える。
南に開口する石室で、側壁の上部と天井石はすでにない。


安満A1号墳の石室

安満A1号墳の石室 方向を変えて見る


 安満宮山古墳 大阪府高槻市安満御所の町
 (撮影日2012/6/24)

安満山には安満山古墳群があり、安満山は後期古墳がある場所と思われていたが、
1997(平成8)年に墓地の拡張に先立つ調査で発見された安満宮山古墳は、古墳時代前期の古墳だ。

安満宮山古墳が発見されて、安満山には、古墳時代前期の古墳と後期の群集墳が混在することとなった。

公園 「青龍三年の丘」入口

安満宮山古墳が保存されている。




安満宮山古墳 説明板
出土した鏡のレプリカが飾られている。


安満宮山古墳は 標高125mの安満山南西斜面にある
東西18m南北21mの長方形墳 
埋葬施設は箱型木棺を安置した墓坑
 墓坑は東西7.5m×南北3.5m ・現存深さ0.4m
 木棺埋納坑は、5.3m×1.3m・深さ1.2m
 木棺は コウヤマキの割竹形木棺で直径0.8m・長さ5m
青銅鏡5面(1号鏡〜5号鏡)、
 ガラス小玉1000点以上、鉄製品(直刀・ヤリガンナ・刀子・鉄斧・ノミ・鎌)
 などが出土
3世紀後半の築造と推定されている。

安満宮山古墳 復元された墳丘

墳丘上には、埋葬施設が展示されている。




安満宮山古墳 埋葬施設展示

墓坑には
透明の強化アクリルでできた覆いが被せられている。


        安満宮山古墳墓坑内部
 墓坑内での、鏡や鉄製品の出土の様子が再現されている。

出土した鏡の中で、2号鏡は、中国・魏の年号、青龍3年(235年)銘をもつ方格規矩四神鏡で、
   1992年に丹後半島の大田南5号墳から出土した鏡と同形である。
この2号鏡が、古いタイプの三角縁神獣鏡(1号鏡)などと、一緒に出土した。

「魏志倭人伝」には、景初3年(239年)6月倭国の外交使節団が邪馬台国を出発、12月に魏の都・洛陽に到着。
 魏は倭国女王・卑弥呼に「親魏倭王」の印綬とともに「銅鏡百枚」などを与えたと記されている。

安満宮山古墳から出土した鏡は、この「銅鏡百枚」に関係あるのかないのか?・・・・・・・・・・

午後6時15分ころ安満宮山古墳の見学を終え、墓地公園入口まで戻る。午後6時半ごろ。
帰らなければ・・・・
高槻市藤の里のガソリンスタンドで、給油後、食事場所をさがすが、ここ!という所がなく、
ようやく、「めしや京都久世店」で夕食。食事を終えたのが午後8時。

京都南ICから高速に入り、賤ヶ岳SAで休憩をはさみ、
帰宅したのが、午後11時15分
日帰り、590kmほどの大ドライブが終わった。

今城塚とその周辺 おわり

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