河内の古墳探索・その6
百舌鳥古墳群
大仙古墳とその周辺
2012/10/26

第一日目に、東大阪市から藤井寺市・羽曳野市の古墳を見学、堺市堺区のビジネスホテルに宿泊。
河内の古墳探索二日目。
朝食を食べ、朝7時過ぎに、徒歩で大仙古墳の見学に向かう。約20分で丸保山古墳。

百舌鳥古墳群

堺市堺区ほか
 (撮影日2012/10/25)

百舌鳥古墳群は
日本最大の仁徳天皇陵古墳をはじめ、第3位の履中天皇陵古墳や第8位のニサンザイ古墳など、
250m以上の巨大古墳を含む日本を代表する中期古墳群。
古墳は現在47基残っているが、消滅した古墳を含めると100基以上の古墳があったことが分かっている。

現在わかっている107基の古墳は、
前方後円墳15基・帆立貝形古墳28基・円墳が54基・方形墳5基・形状不明墳5基。

大仙古墳(仁徳天皇陵)とその周辺
百舌鳥古墳群

堺市堺区
 (撮影日2012/10/25)

大仙古墳の周りを歩きながら周辺の古墳の探索。  大仙古墳周辺の地図

大仙古墳の北東にある丸保山古墳から、大仙古墳を一周する。

日本の古墳で最も大きい大仙古墳は、仁徳天皇陵として、陪塚12基とともに、宮内庁が管理している。
が、大仙古墳の周りには19基(現存16基)の陪塚的な古墳がある。

丸保山古墳  (宮内庁へ号飛地) 国史跡 
  マルホヤマコフン
北丸保園
 大仙古墳の陪塚として後円部は宮内庁が管理、
   前方部と周濠は国史跡に指定され、堺市が管理している。
 丸保山古墳は  墳丘長87mの帆立貝形前方後円墳
   後円部径67m 前方部幅40m 前方部が南を向く
   墳丘の周りには幅10m程の濠が巡る。
 円筒埴輪が採集されている。
 5世紀後半の築造と推定されている。 

  丸保山古墳後円部側

 

  丸保山古墳前方部側 
  前方部は近年まで民家と耕作地であったため
  かなり平坦に削平されている。

丸保山古墳の西側には、菰山塚古墳があり、南側にもかつては古墳のような高まりがあったということだ。

菰山塚古墳 (宮内庁ほ号飛地)
  コモヤマヅカコフン
南丸保園

 大仙古墳の外周にあり、仁徳陵の陪塚として宮内庁が管理している。

菰山塚古墳の図
    (HP世界遺産暫定一覧表より)

菰山塚古墳
 前方部が南を向く
墳丘長33m・高さ4mの帆立貝形前方後円墳


現在は、
住宅に取り囲まれた円墳状の墳丘が残るだけ。


菰山塚古墳その1

菰山塚古墳その2


 樋の谷古墳 (宮内庁丙号)
  ヒノタニコフン
大仙町
陪塚として宮内庁が管理している。

樋の谷古墳の図
     (HP世界遺産暫定一覧表より)
樋の谷古墳は  径47mの不整形な古墳

仁徳天皇陵古墳の三重濠の西側面の
 ほぼ中央の濠が膨れた部分の中にある。
この古墳は濠を掘った時の土を盛ったものともいわれ、古墳かどうかは疑問視されている。


大仙古墳の外濠と樋の谷古墳



 銅亀山古墳  (宮内庁に号飛地)
  ドウガメヤマコフン
大仙町

 大仙古墳の外周にあり、仁徳天皇陵の陪塚として宮内庁が管理している。

銅亀山古墳の図

   (HP世界遺産暫定一覧表より)

銅亀山古墳 墳丘一辺26m・高さ4mの方墳
2段築成で、
下段は南側が造出状に張り出し、長方形となる。
 形はよく残っているが、昔は古墳の上に高射砲の陣地があったと言われ、
   頂上はかなり荒らされていて、埋葬の跡もなくなっていると考えられている。


銅亀山古墳  左が南 

銅亀山古墳  左(南)側が造出部分


 狐山古墳 (宮内庁は号飛地)
  キツネヤマコフン
大仙中町

 仁徳天皇陵古墳の外周にあり、陪塚として宮内庁が管理している。

狐山古墳の図
  (HP世界遺産暫定一覧表より)

狐山古墳は 墳丘直径23mの円墳


現状は、
 墳丘の裾が削られ方墳状になっている。


狐山古墳


高い墳丘が残っている。

 

 竜佐山古墳  (宮内庁ろ号飛地)
  タツサヤマコフン
大仙中町

 仁徳天皇陵古墳の外周にあり、陪塚として宮内庁が管理している。

竜佐山古墳の図(HP世界遺産暫定一覧表より)

竜佐山古墳は 前方部が西を向く
 墳丘長61mの帆立貝形前方後円墳
 後円部径43m・高さ7m 前方部幅26m
5世紀中〜後半の築造と推定されている。
 良佐山の字があてられたり、昭和のはじめ頃に「りゅうさやま」と呼ばれていた記録もある。
 現在の周濠は、大仙公園整備に先立ち実施された試掘調査の成果に基づき復元されたもの。


竜佐山古墳 前方部側

竜佐山古墳 後円部側

  

 孫太夫山古墳 (宮内庁い号飛地)
  マゴダユウヤマコフン
  百舌鳥夕雲町2丁

 仁徳天皇陵古墳の外周にあり、
  陪塚として後円部は宮内庁が管理し、前方部は堺市が管理している。


孫太夫山古墳の図
   (HP世界遺産暫定一覧表より)


墳丘長56mの帆立貝形前方後円墳

 後円部径44.2m・後円部高8m 前方部幅30m
 前方部が西を向く

5世紀中〜後半の築造と推定されている。
 
古墳の名は、所有者であった中筋村庄屋の南孫太夫に由来する。
 一部の調査で、葺石と円筒埴輪があり、幅10m程の周濠がめぐっていたとわかった。
 埋葬施設などについては不明。

 現在の周濠と前方部の一部は、
  大仙公園の整備に先立ち実施された試掘調査の成果に基づき復元されたもの。


孫太夫山古墳前方部側

孫太夫山古墳後円部側

   

 大仙公園に保存された原山古墳と鳶塚古墳   百舌鳥夕雲町3丁 大仙公園内

大仙公園案内図に描かれた
     原山古墳と鳶塚古墳

         (説明板から)
グワショウ坊古墳の近くにあるが、
   詳しい事が描かれていない。

小さな二つの盛り上がりがある。


  原山古墳

  鳶塚古墳

 

 グワショウ坊古墳

  百舌鳥夕雲町3丁  大仙公園内


グワショウ坊古墳の図
  (HP世界遺産暫定一覧表より)
グワショウ坊古墳は 墳丘直径61mの円墳。 
円墳としては、日本の古墳の中でも大形になる。
  (説明板には径58mの円墳となっている。)
周濠がめぐる。墳丘は2段築成。
墳丘には 埴輪と葺石が残る。
主体部の構造や副葬品は不明。
大仙古墳(仁徳天皇陵古墳)や石津ヶ丘古墳(履中天皇陵古墳)の陪塚ではなく、
     独立した古墳と考えられている。
 古墳林は植生観察林ともなる。



グワショウ坊古墳周濠



グワショウ坊古墳周濠

大仙公園整備にともなって周囲の濠に水がはられ、
外から隔てられたのをきっかけに
古墳内の植物の様子が、1985年から調べられている。

径61mの円墳なら、一般的には大きな円墳なのに、説明板には「小さな円墳」と書かれている。
周りの古墳が大きすぎるからかな・・・・・・。
   

 大仙古墳 (仁徳天皇陵)   大仙町
 墳丘長486mの前方後円墳。日本最大の前方後円墳。
 後円部径249m・高さ35.8m 前方部の幅307m・長さ237m・高さ33.9m
 三重の周濠をもつ。
 後円部には、長持形石棺(蓋の長さ3.18m・幅1.67m・厚さ0.24m)がある。
    (1757年の記録から)
 前方部には、
  長持形石棺(蓋の長さ2.4〜2.7m・幅1.45m・高さ0.9m、全体の高さ1.6m)を納めた
   竪穴式石槨(長さ3.9m・幅2.4m)がある。
 石室と石棺の間には甲冑、ガラスの杯、太刀金具、鉄刀20口(本)あまりが確認されている。 
    (1872年の記録から)
 円筒埴輪や形象埴輪(人物・馬・犬・水鳥・家形埴輪・蓋形埴輪)などが出土。
 5世紀中頃の築造と推定されている。 
 仁徳天皇とは
 父は応神天皇、母は仲津姫で、異母弟の皇太子・莵道稚郎子皇子を助け、
  異母兄の大山守皇子を退け、皇太子と皇位を譲りあうが、皇太子の自殺に伴い即位する。
 都を難波高津宮に定めて、葛城磐之媛を皇后とし、のちの履中・反正・允恭天皇をもうける。
 古来より聖帝とたたえられ、理想的な天皇とされている。



大仙古墳 御拝所


御経を
唱えている男性がいる。

大仙古墳 御拝所から見た前方部前面西側周濠

大仙古墳 御拝所から見た前方部前面東側周濠
 
   南東角から見た大仙古墳
    収塚古墳そばから見る。

  大仙古墳 後円部周濠
 茶山古墳と丸保山古墳の間あたりから見る。
 現在、大仙古墳は仁徳天皇陵として宮内庁が管理、立入禁止だが今までにいろんな逸話がある。
1、宝暦7年(1757)に編纂された「全堺詳志」には、
  後円部の頂上に「石ノ唐櫃」のあることが記され、石のふたのサイズは、
   長さ1丈5寸(3m18cm)・幅5尺5寸(1m67cm)・厚さ8寸(24cm)となっている。
  盗掘されていて、石棺の石材は堺の政所の庭の踏み石になっているという話も伝わっている。
2、徳川時代の中ごろまでは、陵墓の管理が十分に行われていなかった。
  1852年、当時の堺奉行がこれを憂いて、後円部にあった勤番所を裏門に移し、
   天皇を葬ったと思われる後円部200坪に高さ3尺の石の柵を設けて
    陵内を整備したと伝えられている。         (説明板から)
3、明治5年(1872年)に大仙古墳の前方部正面が台風で土砂が崩れ、竪穴式石室が露呈した。
  この時発見された石室と石棺、副葬品などが絵図に描かれている。
  甲冑を描いた図は堺市指定有形文化財となっている。

  絵図によれば、石室の長さは
   東西方向におよそ1丈2から3尺(3.9m)、幅が南北方向におよそ8尺(2.4m)あまりで、
   20から30cm程の丸石(自然石)を積上げて造られ、大石3枚で覆っていたと記されている。
   石室の中に納められていた石棺は
    蓋の大きさが幅4.8尺(1.45m)・長さ8から9尺(2.4から2.7m)・高さ3尺(0.9m)
    石棺の全体の高さは推定で5尺3寸(1.6m)程とみられる。(推定30トン)
   石棺は、蓋石が丸く盛り上がっていて亀の甲羅のようで、
   縄掛け突起が径1尺4寸(42cm)と大きく、前面に朱が塗られている。
     (堺市博物館に、この前方部石棺復元模型が展示されている)

  また当時の堺県令は、「掃除」と宮内省に願い出て古墳を開け、
     遺物を外部へ横流ししたとの話もある。
  現在 堺博物館、ボストン美術館やフィラデルフィア美術館などにある
     「伝仁徳陵出土」とされる遺物は、この時の流出品だと もいわれている。
 
    

河内の古墳探索  終わり

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