河内の古墳探索・その9
前の山古墳周辺
塚穴古墳から
2013/4/22

朝一番に、黒姫山古墳の見学を終え、塚穴古墳に行く。

古市古墳群配置図  (パンフレット)

古市古墳群周辺の地図   (ヤフー地図)

 塚穴古墳
来目皇子墓

大阪府羽曳野市はびきの3丁目
 (撮影日2013/4/22)

「あたらしい道」という施設に駐車をお願いして見学。午前9時10分着。
「用命天皇皇子・来目皇子埴生崗上墓(クメノミコハニュウノオカノウエノハカ)」に治定されて、宮内庁が管理している。


  塚穴古墳 北から見た墳丘

  塚穴古墳 東南角 右奥が北
 塚穴古墳は  1辺54m・高さ10mの方墳
  三段築成
  平成17年度からの周辺部の発掘調査で、
   堀の外側に築かれた大規模な土手が、墳丘を取り囲んでいることが判明した。
   古墳の南側の土手は幅16m・高さ2.m、上下2段に築かれている。
   古墳北側の土手は38m・高さ3mで、
   塚穴古墳は土手を含めると130m四方におよぶ広大な範囲となる。
  内部に切り石造りの横穴式石室がある
  陵墓指定される以前(明治初年)には、
    南に開口する切石積の横穴式石室の荒墓で、「塚穴」といわれていた。
  江戸時代後期の記録によると、
   石室の玄室の長さ4.5m・幅2.7m 羨道長4.5m・幅1.8m、
   切石が使用され、中には石棺がある。
  1898年(明治31)に大修理を実施し、空堀をもった方墳に整備した。
 7世紀前半の築造と推定されている。
 被葬者が推古天皇11(603)年に亡くなり、
   後に河内の埴生の岡の上に葬られたという来目皇子と推定されている。

  塚穴古墳 御拝所  南側にある

  塚穴古墳 南側墳丘

現在、塚穴古墳は「あたらしい道」の施設に囲まれて、保存されている。

峰塚公園駐車場に駐車。徒歩で古市古墳群の見学を始める。午前9時40分ごろ。

 白髪山古墳
清寧天皇陵古墳

大阪府羽曳野市西浦6丁目
 (撮影日2013/4/22)

「清寧天皇 河内坂門原陵」として宮内庁が管理している。
古市古墳群の南西部に築かれた前方後円墳。


白髪山古墳
小口山古墳のある山の中腹から見る



2012年10月撮影、この時はそばまで行かなかった…


今回は間近で見学。


北東から見た白髪山古墳


手前後円部 右奥が前方部

白髪山古墳実測図   (古墳大辞典から)
図の上の小さな古墳は、小白髪山古墳
下の大きな前方後円墳が、白髪山古墳

白髪山古墳は 墳丘長115mの前方後円墳
  後円部は直径63m・高さ10.5m 
  前方部の幅128m・高さ11m
  前方部幅が後円部直径の2倍あり、前方部が発達した、
     前方後円墳の最終段階と考えられている。
  前方部前面で幅17mほどの盾形周濠をもつ。 
  周濠は地形に制約されて、
    前方部付近には水量調整用の土手が築かれている。
  くびれ部の北側には造出しがある。
 平成15年度の調査で二重目の濠が存在することが判明した。
 調査で出土した埴輪などから、
   6世紀前半の築造と推定されている。
 墳丘主軸の東延長線上にある小白髪山古墳は、宮内庁により陪冢に指定されている。
  古墳の名称は、被葬者とされる清寧天皇が生まれながら白髪であり、
    白髪大倭根子命(シラガノオオヤマトネコノミコト:古事記)と名づけられていたことに由来する。

 前方部の幅が墳丘全長より長く、しかも極端に広がるという後期の前方後円墳の形をしているが、
   幕末文久年間(1861〜64)の修理時に、 
     シャクシ形をバチ形に変形したという絵図が残っているそうだが・・・?

  白髪山古墳
  
御拝所が前方部正面の濠の外にある

   前方部角からみる白髪山古墳後円部
     左奥後円部

白髪山古墳の北東に大型店の駐車場があるので、しばらくの駐車は可能かも・・・・・

 小白髪山古墳

大阪府羽曳野市西浦1丁目
 (撮影日2013/4/22)

清寧天皇陵の陪塚に治定されていて、宮内庁が管理している。
古市古墳群の南西部、羽曳野丘陵から東にのびる台地の上に造られた小型の前方後円墳。
西方の白髪山(清寧陵古墳)と一直線上に同じ向きで並んでいる。

小白髪山古墳
住宅と道路にはさまれて窮屈そう・・・。

小白髪山古墳は 
 全長46m・高さ4.5mの前方後円墳
 幅10mほどの周濠がめぐる
 墳丘には円筒埴輪が並べられていた。
 白髪山古墳と同じころの、
    6世紀前半頃の築造と推定されている。
木が無いので前方後円墳の形をはっきり確認することができる。

前の山古墳
軽里大塚古墳
日本武尊白鳥陵古墳

大阪府羽羽曳野市軽里3丁目
 (撮影日2013/4/22)

「日本武尊白鳥陵」に治定されて、宮内庁が管理している。
羽曳野市のほぼ中央、羽曳野丘陵から東に延びる中位段丘上に築かれている。


前の山古墳(日本武尊白鳥陵)
小口山古墳のある山の中腹から見る

2012年10月撮影、この時はそばまで行かなかった…

今回は間近で見学。


前の山古墳実測図
   (古墳大辞典から)
 前の山古墳は 前方部を西に向ける
  墳丘長200mの前方後円墳 
  後円部径106m・高さ20.5m 前方部幅165m・高さ23.3m
 前方部の幅が後円部の直径の約1.5倍、
 高さは前方部が3m高い

 くびれ部北側には造出しがある。
 幅30から50mの周濠が巡り、
   その外側に上面幅21mの堤をめぐる。
 墳丘の規模の割に周濠の面積が大きい。
 三段築成
 羽曳野の語源は日本武尊の白鳥伝説に由来している。
  白鳥三陵(伊勢・大和・河内)およびそれに付随する地方伝承があり、
    「尊は三たび白鳥と化して西方めざし、埴生の岡の上を羽を曳きつつ飛び去り云々」
       (日本武尊は遠征の帰り道、伊勢の能褒野(のぼの)で亡くなり  
         白鳥となって大和琴弾原(ことひきはら)を経由して古市に飛来し、
                   また埴生野の空に向かって羽を曳くように飛び去った)
 という故事から、埴生の岡を羽曳野というようになったという。
 
1881年(明治14)に日本武尊の陵に指定されたが時代的にはかなり年代差がある。

 1979年の羽曳野市教育委員会の発掘調査で、
    外堤の幅を画する幅約4.5mの溝が発見され、幅21mの外堤があることが確認された。
 1981年に宮内庁の墳丘裾崩壊箇所の発掘調査では、
    後円部の円筒埴輪列が確認され、朝顔形埴輪や家、蓋などの形象埴輪が出土している。
 円筒埴輪は市野山古墳(允恭陵)と同様な特徴があり、5世紀後半の築造と推定されている。

前の山古墳


前方部角より 右は前方部先端

前の山古墳
後円部脇より前方部を見る


右奥前方部

  前の山古墳 御拝所

   前の山古墳 後円部側

濠が大きくて、見ごたえのある古墳だ!

高屋城(築)山古墳
安閑天皇陵古墳

大阪府羽曳野市古市5丁目
 (撮影日2013/4/22)

安閑天皇 古市高屋丘陵」に治定されて、宮内庁が管理している。
高屋丘陵の北端に築かれている。


高屋城山古墳
実測図    (古墳大辞典から)

高屋城山古墳
墳丘長122mの前方後円墳
 後円部径78m・高さ13m 前方部幅100m・高さ12.5m
 前方部が開き、わずかに後円部の方が高い。
 周濠は幅約15mで全周している。 外堤の規模は不明瞭。
 墳丘部分は、中世の高屋城の築造や陵墓改修により、古墳本来の形態が大きく改変されている。
 前方部の北隅が直角になっているが、これが本来の形態かどうかは不明。
 江戸時代に墳丘の崩れからササン朝ペルシャ製ガラス碗が出土した。(現東京国立博物館蔵)
 これは正倉院にあるものと同種と考えられている。
 出土した埴輪や須恵器の特徴、ガラス椀の年代観から、6世紀前半頃の築造と推定されている。


   高屋城山古墳 御拝所

  高屋城山古墳 前方部の北西角
   右手前が前方部先端 直角になっている。

   高屋城山古墳 後円部側

   高屋城山古墳 前方部角より見る
      右が前方部先端

ふれあいスポット竹内でトイレ休憩のあと、
白鳥神社の前を通り・・・・・

白鳥神社古墳

大阪府羽曳野市古市1の1
 (撮影日2013/4/22)

後で調べたら白鳥神社は、古墳の上にあるという。

白鳥神社は後円部の上にある。

古墳と知っていれば、しっかり見学したのに・・・・・

昔、白鳥神社は峰塚古墳の上にあったそうだ。
白鳥神社古墳は 全長120mの前方後円墳
後円部径65m 前方部幅70m
墳丘の前方部は国道や近鉄南大阪線古市駅で削られている。
後円部には白鳥神社が建っている。
前方部の端と想定されるところから、円筒埴輪、盾・家・きぬがさなどの形象埴輪が出土したが
  前方部が後円部より発達していることから古墳時代後期の築造と推定されている。
6世紀後半の築造と推定されている。
しかし・・・・「古市古墳群分布図」には載せられていない。

インターネットで昔の地形図を見ると前方部の高まりが、古市駅の西側の国道のあたりまで残っている・・・・・。

近鉄古市駅10時56分の電車で、土師ノ里駅へ

長持山古墳石棺につづく・・・・・・

大阪の遺跡トップ

トップページ