更新日 2017/12/15

関西・2017秋
その2  大阪狭山市・貝塚市
2017/10/19〜21

大阪府立狭山池博物館には、たくさんの石棺があるという・・・。

大阪狭山市の地図g

狭山池
国史跡

大阪狭山市池尻中
 (撮影日2017/10/19)

平成27年に国史跡になったばかり。
雨が降ったり止んだりで、残念だ・・・。

 狭山池は、「古事記」「日本書紀」にもみえる、現存する日本最古のダム式溜池
 築造年は616年頃と考えられている
 奈良時代には僧行基が、鎌倉時代には東大寺の僧重源が、江戸時代には片桐且元が改修を行った。
 その後池の管理は江戸幕府直属の大坂町奉行所・郡代・代官などと変更された。
 狭山藩では池守を田中孫左衛門家に世襲させ、その配下に樋役人30人をおいて池水の分配などを行わせた。
 平成の大改修で狭山ダムとなり、市民の憩いの場となる。

 狭山池の平成の改修にともなう発掘調査で見つかった「大阪府狭山池出土木樋・重源狭山池改修碑」
      平成26年に国の重要文化財に指定された

 「狭山池出土木樋」には、飛鳥時代の狭山池築造時につくられ、奈良時代に増設された下層樋、
     江戸時代初めの慶長の改修時につくられた上層東樋と中樋・西樋の取水部が一括で含まれている。

 「重源狭山池改修碑」は、東大寺の再建を主導した重源が
     鎌倉時代のはじめに実施した狭山池改修の契機やその内容が刻まれている。

博物館そばから見た狭山池

現在の取水塔

文化財の指定を受けた資料の多くは、大阪府立狭山池博物館で展示されている。

大阪府立狭山池博物館

大阪狭山市池尻中
 (撮影日2017/10/19)

狭山池博物館は2001年(平成13年)に開館、平成の大改修の際に出土した遺物を保存・公開している。
石棺群は、国重要文化財、大阪府指定文化財、大阪狭山市指定文化財に指定され、この博物館に展示されている。
HP「大和國古墳墓取調室」に石棺の説明があったので、参考にさせていただきました。

 野外展示の石棺群 「石樋」    (大阪狭山市指定文化財)
  お亀石古墳のあたりから、運んできたという伝承がある。
 鎌倉時代の改修で、重源が伏せた「石樋」の樋管
 大正末年・昭和初年の狭山池改修時に中樋放水部付近から出土した。
 古墳時代後期〜終末期の刳り抜き式家形石棺と横口式石槨材を再利用している

博物館入口前に並んだ石棺群

反対側から見る 樋だ!

石材A 
214×118×55cmの大きさ
6個の縄掛け突起が付く。
横口式石槨の蓋か

加古川市の竜山周辺産の凝灰岩製

石材B
186×102×60cmの大きさ、
くり抜き式石棺身
  小口側が破壊

石材C
167×75×57cmの大きさ
小型の石棺身
穴が開けられている。

石材D
180×112×40cm
石棺の身か?
石棺ではかもしれない

石材E
158×92×53cm
くり抜き式石棺の身
小口側が破壊。

石材F
石棺ではない?出所不明
この右に石棺Gが置かれている。


石材G

縄掛突起を持つ家形石棺の蓋の一部
約4分の1に破壊されている。

館内にも石棺を石樋に転用した、遺構が展示されている。

 石材H
 家形石棺の蓋で、223×135×64cmの本体に6個の縄掛突起が付く。
 小口側は樋として使用するために破壊されている。
 竜山周辺産出の凝灰岩製

発掘に携わった末永博士が、子どもの時に、
「亀石」といって遊んでいた石棺材

横から見る
立派な大きな石材だ!
寸法や気泡のある材質が、後述の石材3の身とほぼ合致する。



数々の土木工事を行った重源の像


その前にある石は「重源狭山池改修碑」 (国重要文化財)
摂津、河内、和泉の人々の要請で、重源が狭山池を改修したと記されている。

この石碑も、中樋取水口両側の護岸に再転用されていた。

後述の 石材Iと同じもの
こちらが、本物だろうな。



 鎌倉期の石樋模型 

重源による鎌倉時代の大改修の時の
  石樋取水部復元



背後の木組みは、
堤が地滑りによって崩れるのを防ぐために
  導入された「木製枠工」を
   そのままの姿で展示している。

横から見る  立派な石樋だ!

この重源の石樋取水部の石棺は、
  慶長の改修では中樋に再利用されていた。
この中には底に円形の穴をあけた石棺があった。
これを逆さに置けば取水口になる。
必要な時に栓を抜いて水を取り入れたのだろう。


この石棺の下には、中樋取水部の基礎に使われていた横口式石槨の大きな板石を置いた。
板石に残っていた汚れの輪郭と、取水口の石棺の大きさが一致した。
       (説明板から)

平成の改修の時に、中樋の取水部から石棺、及び石碑が出土した。

「中樋・西樋の取水部 (国重要文化財)
後世に再転用された護岸

岸西側と東側の石材に、石棺や石碑が使われている。
中央の木材が中樋の取水部

鎌倉時代の改修時に放水部とともに、石樋として転用されたもので、さらに後世に中樋取水口両側の護岸に再転用された。

 護岸西側


石材番号
@ A B
C D

 石材@  201.5×127cm×63cm。二上山産出の凝灰岩製くりぬき式石棺の身
     内面に高価な水銀朱が塗られている。

石材@を後ろから見る。


朱が塗られている。
 石材A  227×122×87cm。加西市産出の凝灰岩製くり抜き式石棺の身
小口側が破壊され、本来は石樋に転用されていたと考えられている。
 石材B  222×130×100cm。竜山石製のくり抜き式石棺の身
 気泡質の石材である点や寸法から考えて、
        石材Hの家形石棺蓋と本来は対であったと考えられている
 石材C  226×113×79.5cm。竜山石製のくり抜き式石棺の身
 露出した底面に額縁状の彫り込みがあります。
 石材D  竜山石製の石棺材だか、身か蓋かわからない。
 家形石棺の蓋の未製品か?


 護岸東側


石材番号
E F I
G H

 石材E  134×138×64cm。竜山石製のくり抜き式石棺の身の一部
 石材F  199.5×98×68cm。竜山石製のくり抜き式石棺の身
 小口側の破壊は片側だけで、底の部分に二つの丸い孔が開けられている。
 石樋の先端部分で、孔には木の柱が差し込まれて、
    取水口として利用されていたと考えられている。
 石材G  244×119.5×82.5cm。竜山石製のくり抜き式石棺の身の一部
 石材H  263×128×96cm。竜山石製のくり抜き式石棺の身
 石材I  「重源狭山池改修碑(大阪府指定有形文化財)」が転用されたもの
 重源の像の前に置かれている石材と同じもの   (どちらかがレプリカということ)。
 碑の底を手前に向けている。



「中樋」  (国重要文化財)
護岸西側と東側に挟まれた木組みは、
取水塔の下部にあった中樋の取水部を発掘現場から移設したもの。

   

中央の木組みの基礎には、
横口式石槨の大きな板石が置かれている。






その後ろには取水塔が保存されている。

館内に移設された
大正・昭和初年の改修で設置された取水塔



鉄筋コンクリート製として、国内でもかなり古いもの。


現在は平成の新しい取水塔が稼働している。







堤防断面の展示


時代ごとにどのように堤防が変化していったかを知ることができる。

断面の下は、「上層東樋」(国重要文化財)
コウヤマキの樋


木製の樋が腐ったので、石棺を使って改修しようと考えた重源は、すごいです・・・!

狭山池博物館は安藤忠雄さんが設計したそうだが、立派過ぎて、もったいないくらいだ・・・。

(地蔵堂)丸山古墳
国史跡

大阪府貝塚市地藏堂
   (撮影日2017/10/20))

貝塚市立南小学校のすぐ北にあるが、まわりを住宅に囲まれていて、駐車する場所はない。

貝塚市の地図g

 (地蔵堂)丸山古墳は  全長約70mの前方後円墳
 後円部径43m・高さ5m、前方部幅27m・高さ4m、
 後円部3段・前方部2段築成  周濠は確認されていない
 葺石あり 
 円筒埴輪のほか、朝顔形埴輪、冠帽形埴輪が出土している。 
 古墳時代前期後半(4世紀後半)の築造と推定されている。

 古墳の南側の貝塚市立南小学校の敷地内から
 5世紀に築造されたと推定されている円墳4基と方墳2基が確認されていて、
 丸山古墳を盟主とする地蔵堂古墳群(1号墳〜6号墳)を形成していた
と考えられている。
 各古墳からは古墳に供えられていた各種須恵器類(貝塚市指定文化財を含む)が出土。

 1585(天正13)年、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が橋本の積善寺城攻めの際、
           この古墳に本陣を置いたと云われている。


空から見た丸山古墳
(説明板から)

丸山古墳入口
民家に囲まれていて、ここからしか入ることができない。

後円部頂

墳頂には石が少し見えている。

後円部から前方部を見る

前方部から後円部を見る

近くのイオン貝塚店に駐車させてもらったので、お礼に帰りにフードコートでランチして、お土産を買う。

久米田古墳群につづく・・・・。

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