北村さんちの遺跡めぐり
更新日2011/6/21

兵庫県・その2 2011/4/2〜3

兵庫県二日目です。
長男家族と前夜から有馬温泉に宿泊、孫に初節句の兜を渡し、
朝9時半、長男家族と別れる。

今日こそ、本物の茶すり山を見る。玉丘古墳も見る。

9:42 中国自動車道・西宮北]IC〜
10:05 滝野社IC    

加東市・加西市の地図

タタラ古墳

加東市河高
 (撮影日2011/4/3)

10:05 着
滝野工業団地の入り口滝野総合運動公園隣の墓地に保存されている。

タタラ古墳
説明板がないから、詳しい事はわからない。

大きく見えるけれど、古墳は上の方だけだと思う。
1辺14mの方墳だということだから。

タタラ古墳の墳丘のまん中に
石が集まっている。


石室でもあるのか?
それとも葺石か?

黒石山古墳群

加東市河高
 (撮影日2011/4/3)

滝野工業団地内の夕日ヶ丘公園に、8基が整備保存されている。

黒石山古墳群配置図 (説明板から)
もとは円墳11基から構成されている。

最古の12号墳は5世紀後半の築造で粘土槨と木棺直葬の3基の主体部があった。。
6世紀中頃の11号墳は横穴式石室と木棺直葬墓が共存していた。
11号墳と12号墳は保存されていない。
夕日ヶ丘公園の古墳の中で一番有名なのは黒石山10号墳。

 黒石山10号墳
 径13.5m・高さ1mの円墳
 通称「大谷」を望む尾根の頂部に築かれていた。
 埋葬施設は片袖式の
横穴式石室で、排水溝が付随していた。
 
7世紀初頭の築造と推定されていて、
 7世紀中葉まで使われていたことが須恵器などの遺物から明らかになっている。
 横穴式石室は 玄室長さ3.2m・玄室幅1.6m 羨道長さ3.8m・幅1.4m
 石室は12世紀後葉(平安時代末期)にも利用されているようだが、
  その目的ははっきりしないそうだ。

黒石山10号墳

残念ながら移築したもの
横穴式石室の基底部が保存されている。


黒石山10号墳石室

黒石山10号墳石室

公園はパークゴルフ場となっている。説明板は10号墳にしかない。


 黒石山2号墳

右奥:4号墳、左奥:3号墳
手前が黒石山5号墳

黒石山6号墳

黒石山7号墳

黒石山8号墳

黒石山9号墳  


公園の向かいの工場の敷地に
    古墳らしきものがあるが・・・?



玉丘古墳群

加西市玉丘町ほか
 (撮影日2011/4/3)

玉丘史跡公園とその周辺に保存されている。

玉丘史跡公園案内図

玉丘古墳群の配置図

玉丘古墳 玉丘史跡公園内

玉丘古墳群の主墳。


玉丘古墳・前方部前面から

大きくて全体を見るのは難しい。


玉丘古墳実測図  (説明板から)

全長109mの前方後円墳
後円部径63m・高さ9m 前方部幅58m・高さ7m

東側くびれ部に造出しがある。
3段築成 最下段部に葺石あり 
家形・鶏形埴輪のほか多数の円筒埴輪が出土
幅15m〜20mの周壕がめぐる
周壕外堤上に円筒埴輪がめぐる
後円部中央の主体部は明治17年に盗掘を受け、石棺は破壊されている。
副葬品は、刀剣、勾玉、管玉などの出土が伝えられるが明らかではない
5世紀前半の築造と推定されている。

玉丘古墳・東側周壕

奥が後円部


玉丘古墳 前方部より後円部を見る

前方部前面東寄りに土橋があり、
墳丘に入る事ができる。


玉丘古墳 後円部の盗掘穴

盗掘穴底には、
直葬した組合式長持ち石棺の
蓋石、側石の一部と底石が残っている。

長さ3.4m・幅1.7m・高さ1.4m以上の
巨大な石棺に復原できる。


玉丘古墳の盗掘穴にある石棺の残骸

明治時代に盗掘!

長い歴史からすれば、つい最近だ・・・。

播磨国風土記の根日女伝説
後に23代顕宗天皇と24代仁賢天皇に即位する事となる、意奚(おけ)、袁奚(をけ)の兄弟が、皇位継承争いで父を殺害されて都から逃れ、播磨の国に名前を変え身分を隠し、密やかに移り住んでいた時、根日女と出会った。
根日女は、播磨国賀毛の里を治める国造許麻(くにのみやつここま)の娘で、神秘的な美しさと巫女としての不思議な力を持っていたと言われている。
たちまち兄弟2人共々の心に、根日女に対する恋が芽生え愛として育まれていくが、仲がよかった兄弟は互いに譲り合ってしまい、どちらとも結婚しないままだった。
やがて、二皇子は都に帰る事となり、根日女への愛を心の支えに、大和を平定し帝についた。
しかし、二人の安否を気遣う心労から病の床に伏していた根日女は、ここ播磨の地で息を引き取ってしまう。
それを知った天皇と皇子は嘆き悲しみ、根日女のために賀毛の里に墓を築き手厚く葬った。
当時、表面を美しい玉石でおおわれたその墓は、今も玉丘古墳として残っている。
陪塚第1号墳 玉丘史跡公園内

玉丘古墳の西にある。

陪塚第1号墳

径約25mの円墳と考えられているが、
東側の方丘部とをあわせて前方後円墳とする説もある。

墳丘中央には、盗掘穴があいている。
周濠は、改変が著しい。墳丘裾には葺石がかろうじて残る。
5世紀前半の築造と推定されている。

陪塚第1号墳実測図 (説明板から)

玉丘史跡公園HPには陪塚第1号墳は円墳となっているが、
陪塚第1号墳の前には
この古墳が「前方後円墳」だとする説明板がある。

それによると、
「全長70m、前方部幅30m、後円部径25m・高さ5mで幅10mの周壕がある。
ただし、前方部西側の濠は埋められ、くびれ部で墳丘が切断され、
前方部と後円部が二分され、切断部が濠に通じて水をたたえているので、
後円部が円墳のように見える」
という。

陪塚第2号墳 玉丘史跡公園内

玉丘古墳の東にある。

陪塚第2号墳

墳丘は、大きく削られているが、
一辺24mの方墳で、
幅4mの溝が周囲を方形にめぐる。
周濠からは、埴輪と凝灰岩片が出土。

古墳時代中期の築造と推定されている。

愛染古墳 玉丘史跡公園内

加西市佐谷町字上天寺から公園内に移築復元されている。


愛染古墳





愛染古墳実測図 (説明板から)

丘陵斜面に造られていたようだ

径18mの円墳
7世紀(古墳時代後期)の築造
と推定されている


愛染古墳石室内部

無袖式横穴式石室に組合式家型石棺が置かれている

須恵器が出土している。



クワンス塚古墳 玉丘史跡公園内
玉丘古墳の西約170mにある。

クワンス塚古墳

手前が方形の造出し部



クワンス塚古墳実測図 (説明板から)

径35mの円墳
方形の造出し部がある
2段築成
墳頂及びテラスに、円筒埴輪等の埴輪がめぐる
斜面及び墳丘裾に凝灰岩の葺石が残る
墳頂には、割竹形木棺を納めたと考えられる竪穴式石槨がある。
副葬品には、三角板革綴じ短甲・剣・直刀・鉾等の武具、斧等の農工具
造出し部からは、鶏形埴輪等の形象埴輪、土器類の他に
杵形・突起付棒形・棒形・円盤形・籠目形等の土製品が出土
古墳時代中期の築造と推定されている。

クワンス塚古墳墳丘から周壕を見る

奥に見えるのは
左・玉丘古墳 中央・陪塚1号
 

クワンス塚古墳墳頂には
竪穴式石槨が残っているが
石材が多数抜き去られ、大半の副葬品も、
その時になくなったものと考えられている。

壇塔山古墳
(ダントウヤマ)
芳ヶ端下1号墳
玉丘史跡公園内

玉丘古墳の南東約110mにある。

壇塔山古墳と、
それに隣接する芳ヶ端下1号墳は現状保存


壇塔山古墳径17mの古墳時代中期の円墳
主体部、墳丘施設等については不明
墳丘周囲に巡る幅3mの周溝から埴輪片が出土

芳ヶ端下1号墳径18mの古墳時代後期の円墳もしくは方墳と考えられている。
墳丘は改変されているが、横穴式石室が南に向かって開口することが確認されている。
しかし、石室の天井をはじめ使用石材の大半が抜き去られている。

実盛塚古墳 玉丘史跡公園内

玉丘史跡公園の西隅にある。


実盛塚古墳




実盛塚古墳 (説明板から)

径21mの古墳時代中期(5世紀)の円墳
主体部、墳丘施設等については不明


マンジュウ古墳
北条町古坂6丁目
玉丘古墳の北300mの街中にある。

マンジュウ古墳
墳丘の大部分が削られている。


墳長46mの帆立貝式墳
 後円部径39m・前方部幅26m

南側のくびれ部に、造出し部がある、2段以上の築成であることが判明した。
墳丘には埴輪がめぐる
墳丘周囲には、幅10m前後の周濠と周庭帯が残る。
古墳時代中期の築造と推定されている
逆古墳
サカサコフン
北条町古坂6丁目

マンジュウ古墳のすぐ東にある藪が古墳だ。

逆古墳
史跡となっているが、詳細不明

マンジュウ古墳周囲には、
他にも一辺10mの小型の
方墳や径24mの円墳が
存在していたという。


その他の玉丘古墳群

見学出来なかったけれど・・・玉丘古墳群の配置図

笹塚古墳・・・北条町古坂7丁目
 前方部を東に向けた全長51m、墳丘径43m、前方部幅16mの古墳時代後期と考えられる帆立貝式墳
 削られた墳丘頂部は、竪穴式石槨が露出し天井石等が落下している。
 墳丘裾にある方形の造出し部はほとんど削られていた。
 墳丘周囲には、幅10mの周濠がめぐる
 周濠の埋土からは、円筒埴輪片の他、人物等の形象埴輪が出土

小山古墳・・・  (マンジュウ古墳と笹塚古墳の間にあるはず?)
 前方部を東に向けた全長79m、後円部径49mの古墳時代中期の前方後円墳
 玉丘古墳群中、玉丘古墳に次ぐ大きさ
 墳丘北側くびれ部に造り出し部があり周囲には周濠がめぐる

亀山古墳・・・笹倉町   標高163mの山頂に位置する古墳時代中期の古墳
 径45m・高さ7mの円墳
 墳頂には、2基の竪穴式の石蓋土坑があり、横矧板鋲留短甲と横矧板鋲留眉庇付冑、剣等の武具類、鏡が出土
 墳丘裾には、埴輪がめぐる

ジャマ古墳・・・北条町横尾
 径53mの古墳時代中期の円墳に復元できるが、宅地、道路などで古墳の形は大きく改変
 墳丘周囲には、幅14mの周濠がめぐり、水田の畦に痕跡をとどめている。
 調査では、墳丘裾から凝灰岩、埴輪片、須恵器が出土
 中世には、周濠を灌漑用溜め池として再利用
 同古墳からの出土と考えられる石棺が付近に存在していたようだが、この石棺の行き先は不明

マンジュウ古墳そばの来来亭ラーメンで昼食後、神埼郡福崎町へ向かう。

相山古墳

神埼郡福崎町大貫
 (撮影日2011/4/3)

福崎町大貫にあるとわかっているが、位置の特定ができていなくて、きょろきょろ探していたら、
23号線の北側の尾根先端あたりに埴輪がみえた。あっ、あれだ!

相山古墳 上り口

麓には「稲荷大明神」がある。
古墳は山の上の小さな盛り上がり


相山古墳
墳丘に埴輪を並べてある。


昭和7年の新聞記事に
「大前方後円墳を発見した」という記事がのり、
前方後円墳ではないかという説が紹介された。

現在は円墳か前方後円墳と思われるが、はっきりしないということになっている。(説明板から)

相山古墳墳丘から 下界を見渡す。

前方後円墳でないにしても、
福崎町内で唯一
 埴輪(円筒埴輪)を持つ古墳として
知られている。


6世紀前半の築造と推定されている。

妙徳山古墳
町史跡

神埼郡福崎町東田原
 (撮影日2011/4/3)

市川東岸にある天台宗の古刹妙徳山神積寺境内にある。

妙徳山神積寺

正暦2年(992年)に開基と伝えられている。
播磨六山のひとつ
薬師如来は国重文

古墳は右手の雑木林の中にある


妙徳山神積寺の石灯籠 
町指定文化財となっている。

銘文から
天和3年(1683年・江戸時代初期)、
北山田村(現姫路市)の助左衛門が両親の菩提を弔うために寄進したことがわかる。


妙徳山古墳 石室を覗き込む

直径35m・高さ6m以上の円墳 2段築成
南に開口している
入り口の天井石がくずれ、
中に入れる状態になっている。
6世紀末ごろの築造と推定されている


妙徳山古墳 羨道から玄室をみる。
大きい!
片袖式の横穴式石室
全長約12.4m、玄室長6m・高さ約3.2m
羨道部長約6.4m・高さ約2.4m

横穴式石室の大きさを
市川流域のものでみてみると、
最大級を誇る


妙徳山古墳 奥壁


妙徳山古墳 内部から入口をみる

入口付近には大量の土砂が入り込んでいる

福崎町の地図

東広畑古墳
町史跡

神埼郡福崎町西田原
 (撮影日2011/4/3)

東広畑古墳と東新田古墳は整備され、東広畑古墳公園と なっている。

復元前の東広畑古墳 (説明板から)
石室が露出している。


整備された東広畑古墳

径16mの円墳


東広畑古墳の横穴式石室入口

西側に開口している。
全長10.4m
無袖式の横穴式石室
床面には排水溝がある。


東広畑古墳石室内部

高室石(加西市産)の石棺の一部が残っている。
須恵器や馬具などの鉄製品、金メッキされた耳環、青色の勾玉などが出土
6世紀末〜7世紀初めの築造と考えられている。

東新田古墳
町史跡

神埼郡福崎町西田原
 (撮影日2011/4/3)

東広畑古墳のすぐ東にある。

東新田古墳
元は山の尾根上につくられていた。
(この場所が山の尾根上ということか?)
ツブレ塚ともよばれ、江戸時代には壊され
今のような状態になったという。

径16mの円墳と推定されている。


東新田古墳
横穴式石室を奥壁側から見る

無袖式の横穴式石室は 全長9m
西側に開口していることから
西の方に古墳と関係のある集落(西広畑遺跡)が
あったと考えられている。
須恵器や武具・馬具と考えられる鉄製品、耳環などが出土
6世紀末〜7世紀初めの築造と推定されている。
「妙徳山古墳は南を向くが、東新田古墳や東広畑古墳は西を向く。
 これは西側に古墳とかかわりのある集落があったからではないかと考えられる」
と説明板に書かれている。

大塚古墳
町史跡

神埼郡福崎町山崎
 (撮影日2011/4/3)

水田の中にあるというのですぐ見つかると思ったが、なかなか見つからない。
ぐるぐる回ってようやく赤い鳥居を発見。

奥壁側(北側)からみた大塚古墳
 
径30m・高さ3.5mの円墳

説明板の右側には
横穴式石室奥壁側の穴がある
  (盗掘坑)


盗掘坑の穴


石室入口側から見た大塚古墳

建物の下あたりに入口がある。
南に開口している


大塚古墳石室入口


大塚古墳 石室内部

奥壁の穴が見える

右片袖式の横穴式石室は 全長12.3m
玄室長6.6m・高さ1.7m 
羨道長5.7m・高さ1.3m


大塚古墳 玄室から入口を見る

出土品などは不明だが、
この古墳から出土したと伝わる
石棺の一部が近くにあるという。

朝来市に入る。

船之宮古墳
県史跡

朝来市桑市
 (撮影日2011/4/3)

船之宮古墳は、森八幡神社となっている。
円山川左岸の段丘につくられている。
標高131mの段丘平坦面に盛土のみで成形されていることがわかった。
国内最古級の牛形埴輪が出土したことで有名になった。

船之宮古墳 上り口
北東から

全長86mの前方後円墳で、
  周濠も含めると117mとなる。
前方部幅50m、後円部径47m・高さ8m
三段築成 全面に葺石あり
くびれ部左右に方形の造り出しをつくる。
周濠は楯形、周濠外壁にも葺石があり、埴輪(円筒、盾、など形象埴輪)が出土
5世紀後半の築造と推定されている。
周壕の外側からも埴輪などが出土することから、古墳周辺にもなんらかの遺構があると推定されている。

船之宮古墳 西側から
左(北) 前方部

古墳東側は道路の下に埋没している。
墳頂部は未調査
但馬の国造の彦坐王(ヒコイマスミコ)の5世の孫である船穂足尼(フナホソコネ)の墓だという伝承がある。

茶すり山古墳
国史跡

朝来市和田山町筒江
 (撮影日2011/4/3)

今回の旅の第一の目的はこの茶すり山古墳だ。ようやくたどり着いた。
午後4時をまわってしまった。
茶すり山古墳は、北近畿豊岡自動車道建設に先立ち発掘調査、その後保存整備された。
ガイダンス施設「茶すり山古墳学習館」も素敵な建物だ。

西側の道路から見上げる
  茶すり山古墳


私市円山古墳とそっくり!

道路標識がジャマだなぁ!


西から見上げる
  茶すり山古墳




南東から見た茶すり山古墳

茶すり山古墳は南西に延びる山を利用してつくられている。



復元された茶すり山古墳墳頂部

頂部平坦面は長径36m・短径27m
二つの埋葬施設が平行して発見され、
第1埋葬施設はガラスの覆い屋に復原、第2埋葬施設は陶板により平面表示されている。

茶すり山復元図
長径90m・短径78m 高さ18mの円墳
2段築成
標高144mの尾根を削り出し、形を整えて築造されている。
埴輪は古墳頂上の外周とテラスに配置されている。
第1埋葬施設の真上にも埴輪が並べられていて、大小の家形埴輪が3棟直線的に並べられ、
その周辺には、ついたて形埴輪などの器材埴輪が取り囲んでいた。

第1埋葬施設   (説明板から)
 組合せ木棺(長さ8.7m)で中を3つに区切っている。 副葬品は約1800点。
 東区画は武器・武具や農耕器具類、2セットの甲冑が出土した。
 中央区画は被葬者を安置するため、小さな玉砂利がしかれ、頭の部分には水銀朱、その周りに銅鏡3面、玉類、刀剣類が出土した。
 西区画(4.15m)には、刀剣類・槍鉾類・鉄鏃などの武器類が3枚の革盾におおわれて出土。
第2埋葬施設   (説明板から)

 組合せ木棺(長さ4.8m)で中を3つに区切っている。
 中央区画は、被葬者を安置するため、玉砂利がしかれ、東枕で埋葬され、鏡・玉類・櫛・針・刀が出土した。
 東区画(頭側)は鉄製農工具が、西区画(足元)は鉄鏃が束になって出土した。


葺石露出展示

墳丘上段斜面に全面葺石
下段斜面には一部葺石
石は大小さまざま


茶すり山古墳の近くには、朝来市埋蔵文化財センター「古代あさご館」があるそうだ。

城ノ山古墳

朝来市和田山町東谷
 (撮影日2011/4/3)

古墳を守るためにつくられたトンネルの上に保存されている。
昭和46(1971)年、和田山バイパスの建設工事に伴い全面発掘調査が行われた。

短いトンネルの上の城ノ山古墳

現在立入禁止になっている。

自己責任で柵を越え上る。



城ノ山古墳の麓は墓地  (右側がトンネル入口)
城ノ山古墳は地山成形によって作られている
南北径30m・東西径36m・高さ5mの円墳
墳丘からは小規模な礫群が検出されたが、
 葺石としては確認されていない。
埴輪もない
4世紀末頃の築造と推定されている。




城ノ山古墳墳頂部
まん中がへこんでいる。

埋葬施設は8.9m×2.9mで地山を彫り込んで作られていて、
中には6.43m×0.6mの木棺が置かれ、
遺骸は頭部を東に向けて埋葬されていた。
人骨(頭骨)が残存、遺物の出土状態や頭蓋骨の位置等から、
頭部付近に三角縁神獣鏡を除く3面の鏡と石製腕飾類や玉類、鉄剣などが置かれ、
足元には三角縁神獣鏡3面が鏡面を上にして置かれていた。
頭部側の副室には鉄刀、刀子、ヤリガンナなど、鉄製品が納められていた。
遺物は一括して国重要文化財として指定されている。
城ノ山古墳は円山川方向に延びる丘陵尾根先端部に位置し、
次に紹介する池田古墳は、
位置関係から、城ノ山古墳の子孫が池田古墳ということになるという。

朝来市地図

池田古墳

朝来市和田山町東谷
 (撮影日2011/4/3)

城ノ山古墳の北にある低丘陵の緩斜面にある。

国道9号線和田山バイパスの建設の際に調査され、陸橋をつくり保存された。
その後、何度か調査され、但馬では最大の前方後円墳と確認されている。
しかし、破壊が激しく、形はよくわからない。
JR山陰本線敷設に伴う土砂採取により、墳丘盛土の大部分は削平されている。

池田古墳の後円部の高まり

周りを歩けば、前方後円墳の形がわかるのかなぁ・・・。

前方部の墳丘は削られ、
後円部の高まりがわずかにに残っている。
池田古墳は 兵庫県下4番目の大きさ
全長141mの前方後円墳で、周濠を含めると全長170mだという。
前方部幅71m、後円部径76m
テラスに円筒埴輪や葺石がきれいに並んでいる。 三段築成
楯形の周濠がある
5世紀中頃の築造と推定されている。
この池田古墳からは水鳥形埴輪が計23体見つかり、全国最多の出土数になった。
中でも、脚台つきの1体は高さ48cm・幅21cm・長さ44cmでほぼ完全な形を保っていた。(2011年3月現説)
水鳥形埴輪は大和朝廷でつくられていたものと同様のもの。

岡田古墳群

朝来市和田山町岡田
 (撮影日2011/4/3)

岡田古墳群は、円山川の支流、東河川の下流域に発達した小扇状地上にある。
大型前方後円墳2基・大型円墳3基で構成されている古墳群。

小丸山古墳 (県指定文化財)

山の頂部だけが古墳だ。
手前 前方部


小丸山古墳
標高108mの独立丘陵上に造られている。
全長60mの前方後円墳
  後円部径30m・前方部幅21m 後円部より前方部が30cm高い
墳丘主軸は、牧田より少し東に向いている。
後円部頂は非常に平坦で広い
くびれ部はかなり長い
墳丘東側に造り出し状の平坦部があり、この部分から円筒埴輪の細片が出土している。
主体部は不明
6世紀前半〜中期の築造と推定されている。

小丸山古墳
前方部から後円部をみる





小丸山古墳

後円部から前方部をみる


小丸山(小盛山)古墳 遠景
山の上部だけが古墳


くびれ部の少し下に、造り出し状の平坦部が見えている。



小丸山古墳から見た長塚古墳・冑塚古墳



長塚古墳

墳丘中央部のくびれ付近から西側の前方部にかけて
宅地造成によって大幅に削平されているため、
二つの古墳があるように見える。
長塚古墳は、標高約110mの小扇状地上につくられている
全長70mの前方後円墳
後円部径40m・高さ7m 前方部幅40m・高さ9m
周濠があった可能性がある。
少量の円筒埴輪が採集、後円部墳頂や前方部には河原石の葺石がある。
平成9年度に家屋解体後に調査、くびれ部付近の段築テラス部を確認した。
造り出しはない。
5世紀中ごろの築造と推定されている。

冑塚古墳
墳丘上は墓地となっている。

南北径35m・東西径36m・高さ6.6mの円墳
三段築成
未調査だが埴輪片が出土
5世紀末ごろの築造と推定されているいる。




小丸山古墳から見た岡田2号墳

昭和62年度に道路改良工事に伴って発掘調査、
径26mの円墳と復元されることが分かった。
埴輪片が出土
この墳丘下層には、弥生中期末の竪穴住居址が確認された。


岡田2号墳近景
裾がコンクリートで固められている。



北東100mの墓地にある岡田1号墳径約28m)は未調査。

岡田古墳群では埴輪片が採集されていて、採集遺物の年代観から、
5世紀後半の長塚古墳→冑塚・岡田1号墳・2号墳→6世紀前半の小丸山古墳の順に築造されたと推定されている。
その後の首長墳は、和田山町加都の車塚および王塚古墳→養父町の大藪古墳群となると考えられている。

午後6時10分前。そろそろ古墳見学は限界の時間となった。
今から帰ると自宅着はいつになるのか?
道の駅「農匠の郷やくの」でトイレ休憩後、ひたすら家路を急ぐ
午後6時35分 福知山ICから舞鶴若狭自動車道  

ライトアップされた私市円山古墳

舞鶴若狭自動車道走行中に撮る。
撮影日時 2011/4/3  18時39分


午後7時20分 小浜ICから一般道
         すき家・27号小浜店で夕食
午後9時    敦賀ICから北陸自動車道
午後10時15分 徳光IC           
午後10時25分 帰宅

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