奈良市・1   石のカラト古墳 佐紀盾列古墳群   平城京跡 宝来山古墳

石のカラト古墳
(カザハヒ古墳)
国史跡

奈良市神功1丁目緑地・
木津川市石のカラト古墳緑地
(撮影日2008/11/26)

この古墳の真ん中を奈良県と京都府の境界線が通る。
奈良県側の名前が「石のカラト古墳」、京都府側の名前が「カザハヒ古墳」。
元は山の中だったのだろうが現在住宅街の中に公園として残っている。
住宅の中に埋もれていて、すぐには見つけられない。



石のカラト古墳遠景


石のカラト古墳は昭和56年に発掘調査された。
下段の表面には30cm大の葺石があったが、上段の葺石はほとんど失われていた。



石のカラト古墳
上円下方墳でお供え餅みたいに見える。
「カラト」の名は石室が唐櫃に似ていることから付けられたという。
石のカラト古墳
  珍しい上円下方墳で  下方部一辺13.8m・上円部径9.2m・高さ2.9m
 全面川原石で覆う
 埋葬施設は横穴式石槨で高松塚・キトラなどと同じ
 7世紀末〜8世紀前半の終末期古墳と
推定されている
横穴式石槨
 間口1.15m・奥行2.6m・高さ1.2mで5枚の凝灰岩の切石でできている。
盗掘されていたが、朱塗りの棺があったらしく、漆の破片、金・銀の玉など豪華な副葬品の一部が出土した。

 地図y

佐紀盾列古墳群 奈良市

平城宮跡の北に広がる低丘陵に、東西3km、南北1.5kmの範囲にわたって佐紀盾列古墳群がある。
奈良市佐紀町・歌姫町・法華寺町にかけて奈良盆地北部、佐紀丘陵南斜面にかけて分布する。
(古墳の大きさについては古墳辞典を参考にしました)

    佐紀盾列古墳群配置図 

西群
@ 五社神古墳・神功皇后狭城盾列池上陵
A 佐紀石塚山古墳・成務天皇狭城盾列池後陵
B 佐紀陵山古墳・日葉酢媛命狭木之寺間陵
C 佐紀高塚古墳・称徳天皇(孝謙天皇)高野陵
D マエ塚
E 瓢箪山古墳
F 丸塚古墳
G 塩塚古墳
H オセ山古墳
I 猫塚古墳
東群
J 市庭古墳・平城天皇揚梅陵
K ヒシアゲ古墳・磐之媛命陵墓
L コナベ古墳・小奈辺陵墓参考地
M ウワナベ古墳・ 宇和奈辺陵墓参考地
N 不退寺裏山古墳
O 平塚1号墳
P 平塚2号墳
Q 神明野古墳
(不退寺境内石棺)

西群 4C後半〜5C前半の築造と推定
東群 5C中葉〜後半の築造と推定

西群 大きさ 時期  その他
@ 五社神古墳
神功皇后狭城盾列池上陵
前方後円墳 全長273m
後円部径196m・高さ23m
前方部幅168m・高さ27m
4C中〜後半 3段築成 埴輪あり
鍵穴形の周濠
A 佐紀石塚山古墳
成務天皇狭城盾列池後陵
前方後円墳 全長218.5m
後円部径132m・高さ19m
前方部幅111m・高さ16m
4C後半〜末 3段築成 埴輪あり・葺石あり
鍵穴形の周濠
B 佐紀陵山古墳
日葉酢媛命狭木之寺間陵
前方後円墳 全長206m
後円部径130m・高さ18m
前方部幅89m・高さ12.3m
4C後半〜末 3段築成 埴輪あり・葺石あり
盾形周濠
C 佐紀高塚古墳
称徳天皇(孝謙天皇)高野陵
前方後円墳 全長127m
後円部径84m・高さ11.8m
前方部幅70m・高さ14.8m
  埴輪あり
周濠
D マエ塚 円墳 径48m・高さ7m 4C後半〜末 破壊
E 瓢箪山古墳 前方後円墳 全長96m
後円部径60m・高さ10m
前方部幅45m・高さ7m
5C前半 盾形周濠
F 丸塚古墳 円墳 径45m
G 塩塚古墳 前方後円墳 全長105m
後円部径70m・高さ9m
前方部幅55m・高さ2m
5世紀前半 盾形周濠
松林苑に取り込まれ変形
H オセ山古墳 前方後円墳 現状径40m・高さ5m
 の円墳状
前方部削平
埴輪あり・葺石あり
後円部墳丘・周濠が残る
I 猫塚古墳 前方後円墳 全長120m 5C初頭
東群
J 市庭古墳
平城天皇揚梅陵
前方後円墳 全長250m
後円部径150m
前方部幅160m
5C前半 現状 径105m・高さ13mの円墳
平城京造営時に前方部破壊
K ヒシアゲ古墳
磐之媛命陵墓 
前方後円墳 全長219m
後円部径124m・高さ16m
前方部幅145m・高さ13.6m
5世紀後半 埴輪あり・葺石あり
2重の盾形周濠
L コナベ古墳
小奈辺陵墓参考地
前方後円墳 全長204m
後円部径125m・高さ20m
前方部幅129m・高さ17.5m
5C初め 3段築成 埴輪あり
盾形周濠と周堤
M ウワナベ古墳
宇和奈辺陵墓参考地
前方後円墳 全長256m
後円部径129m・高さ20m
前方部幅127m・高さ20m
5C中ごろ 3段築成
2重の盾形周濠
N 不退寺裏山古墳 前方後円墳 全長62m
後円部径40m
前方部幅30m
  埴輪あり
山上に立地
  (不退寺境内石棺)  不退寺境内に石棺が置かれている。   
O 平塚1号墳 前方後円墳 全長70m
後円部径50m
前方部幅28.6m
  埴輪あり・葺石あり
P 平塚2号墳 前方後円墳     平城京造営時に破壊
埴輪あり・葺石あり
Q 神明野古墳 前方後円墳 全長117m   平城京第2次大極殿造営時
に破壊
佐紀盾列古墳群には入りませんが・・・・
宝来山古墳
垂仁天皇菅原伏見東陵 
前方後円墳 全長227m
後円部123m・高さ17.3m
前方部幅118m・高さ15.6m
4C中〜後半  埴輪・葺石

   
   

@ 五社神古墳・神功皇后狭城盾列池上陵
 
ゴサシコフン                        
奈良市陵町字宮ノ谷
(撮影日2008/11/26)

神功皇后(オキナガタラシヒメノミコト)は、第14代仲哀天皇の皇后で、第15代応神天皇の母。
全長273mの前方後円墳
 後円部径196m・高さ23m 前方部幅168m・高さ27m
3段築成 埴輪あり
鍵穴形周濠(周濠は数箇所、渡り堤によって区切られている)
古墳時代前期(4C中〜後半)の築造と推定されていて、古墳群中最大で最も古い。
丘陵の途中を断ち切って築造(丘尾切断形式)。

五社神古墳全景(東側から)

右 後円部
濠の水は近隣の田の灌漑用とされているという。
上の写真の真ん中の陸橋を渡って後円部の周提帯を歩く。


五社神古墳
立派な周提帯




五社神古墳
濠が途切れて後円部とつながる陸橋となる。


1696年の松下見林による「前王廟陵記」には、墳頂上に石棺と思われる石材の露出と円筒埴輪があったという記録がある。
1850(嘉永3年)年の盗掘記録でも、長持型石棺があったとされる。
古くは、後円部頂上に祠堂をつくり、五社神または五神社といい、名前の由来となった。
西北と東南の丘陵に各2基の陪塚がある。 

A  佐紀石塚山古墳・成務天皇狭城盾列池後陵 奈良市山陵町
(撮影日2008/11/26)

第13代成務天皇狭城盾列池後陵とされる。
全長204mの前方後円墳
 後円部径132m・高さ19m 前方部幅111m・高さ16m
埴輪あり 葺石あり 3段築成
狭い鍵穴形の周濠
東側の墳丘と周濠の幅が窮屈で、東に並ぶ陵山古墳の後に造られたことがわかる。


佐紀石塚山古墳前方部




佐紀石塚山古墳正面


何度か盗掘されていて、1844年には勾玉50・管玉100が売られたという記録がある。
盗掘記録によると石棺は、身が長さ2..1m、幅、高さ1.2m、蓋石は長さ2.4m、幅1.5mで、長持形石棺と見られる。
後円部北側に3基の倍塚(方墳)が計画的に配置されている。

B  佐紀陵山古墳・日葉酢媛命狭木之寺間陵
サキミササギヤマ   ヒバスヒメノミコト   
奈良市山陵町字御陵前
 (撮影日2008/11/26)

第11代垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命狭木之寺間陵とされる。
全長206mの前方後円墳
 後円部径130m・高さ18m  前方部幅89m・高さ12.3m
三段築成
盾形周濠(3区に区切られている)
葺石あり 埴輪あり(きぬがさ・盾・家形埴輪、円筒埴輪)
4世紀後半〜末の築造と推定されている
 周濠の様子から、佐紀石塚より先行すると考えられている。

佐紀陵山古墳
西側から見た前方部



佐紀陵山古墳
手前に周堤帯
奥 渡り堤

渡り堤で周濠が区切られている




佐紀陵山古墳
周濠の中にある小島


1696年の松下見林の「前王廟陵記」には墳丘には円筒埴輪が並ぶこと、
後円部頂上に石棺があること、ふもとには鳥居があったことなどの記述がある。
大正年間にも盗掘があり、その復旧工事の記録が残っていて、
陵墓参考地の中では、内容が分かっている数少ない古墳。
後円部に方形壇(東西15.7m南北16.5m高さ0.7m)があり、大型の器財埴輪・円筒埴輪が立て並べられていた。
その下に巨大な竪穴式石室(8.55×1.09×1.48m)がある。
5枚の天井石の上には、長さ2.6m、幅1m、高さ0.45mの「屋根形石」が置かれていた。その表面に文様彫刻がある。
長持型石棺の先行形式と推定される。
流雲文縁変形方格規矩鏡など4面、銅鏡、
車輪石などの石製腕飾り(碧玉製)、刀子(滑石製)などの石製模造品
などが出土。
いずれも石膏型を取って、コンクリートの箱に入れて、石室内に埋め戻された。 

C 佐紀高塚古墳 ・称徳天皇(孝謙天皇)高野陵

奈良市山陵町字御陵前
撮影日2011/11/20

佐紀石塚古墳のすぐ南にある。
佐紀高塚古墳は  全長127mの前方後円墳 
  後円部径84m・高さ11.8m 前方部幅70m・高さ14.7m
 不整形な丘尾切断形式
 3段築成   埴輪あり 不連続の周濠
 この古墳群では珍しく主軸が東西になる。
 古墳時代前期の築造と推定されている。


佐紀高塚古墳 正面
(前方部側から)
1868年、高塚といわれていた古墳を修復し、陵墓に比定した。
詳しいことは分かっていない。

E  瓢箪山古墳
(国史跡)

奈良市佐紀町衛門戸
(撮影日2008/11/26)

全長96mの前方後円墳
 後円部径60m・高さ10m、 前方部幅45m・高さ7m
2段築成
盾形の周濠は前方部南西では丸塚のため途切れている。
葺石あり 少量の埴輪あり
5世紀前半の築造と推定されている。



瓢箪山古墳石碑

陵墓参考地になっておらず、
佐紀盾列古墳群では数少ない墳丘に立ち入れる古墳。


瓢箪山古墳全景
右 前方部
前方部中央にいる私が見えるだろうか?
前方部は西半分が削られていたが、現在は復元整備されている。

1914(大正3)年の土取り工事で前方部西半分が破壊、
その時に粘土槨(1m×0.6mの長円形)が発見されて、
琴柱形石製品3(宮内庁保管)が出土したと伝えられている。
1972(S47)年、範囲確認調査で周堀が確認されたが、
前方部西南に丸塚古墳があったために、
前方部から西側面にかけての部分は、
その周濠が欠けていることがわかった。
墳丘裾部と外提内側に葺石があり、円筒埴輪と壺形埴輪が出土している。
後円部の埋葬施設は不明。

F  丸塚古墳

奈良市佐紀町衛門戸
(撮影日2008/11/26)

瓢箪山の西南部に隣接する。
径45mほどの円墳と推定されているが、正確な墳丘規模は不明。


瓢箪山から見た丸塚
雑木に覆われてよく分からない


1913(大正2)年、工事中に封土が削られ、粘土槨(3m×1.5m)から
銅鏡14・琴柱形石製品3・銅鏃19・刀剣18口などが出土した。

G  塩塚古墳
(国史跡)

奈良市佐紀町、歌姫町塩塚
(撮影日2008/11/26)

全長105mの前方後円墳
 後円部径70m・高さ9m 
 前方部幅55m・高さ2m(後円部の高さに対して前方部は著しく低い)
 円筒埴輪あり
東側だけ後円部北側半分までの濠があり、後円部西側にくびれ部までの空濠がある。
古墳時代中期(5世紀前半)の築造と推定されている。


塩塚古墳全景

右奥 後円部
左の前方部は低く平坦に延びている。


1956年の調査で、後円部頂上から木棺を粘土で包んだ埋葬施設が確認。
この粘土槨は長さ6.8m・幅1.3〜1.45m。
盗掘されていたが、鉄剣・刀子・蕨手形刀子・鉄斧・鉄鎌などが出土。
蕨手形刀子は、県下では五条市の塚山古墳との2例しかない珍しいもの。
1973年、東半分を削平する話が出たが、関係者が奔走して保存がきまり、公有地となって整備保存されている。
1979年奈良時代の平城宮の苑地の松林苑の発見に伴う調査で、
前方部から奈良時代の瓦が大量に出土したことからここに建物があったと推定され
松林苑に取り込まれ、前方部は改変されたと推定されている
(それで後円部に比べて、前方部が低く扁平なのだろう。)

H オセ山古墳
佐紀盾列古墳群
奈良市歌姫町
撮影日2011/11/20
奈良県遺跡地図・70

自動車でやっと通れる道沿いにある。墳丘は雑木林になっているが周壕が残っている。
ヤフー地図では「マラ塚」と記されている。


オセ山古墳 西側から
ほとんど削平された前方部から、後円部を見る

オセ山古墳
 周壕が後円部を囲んで残っている。
 オセ山古墳
 現存65mの前方後円墳  後円部径45m・高さ5m 
 消滅した前方部を西に向ける。
 周壕あり。 葺石あり・埴輪あり。
 後円部2段築成

とっても道が狭い。けれども、生活道路なのだなあと感心してしまう。

J   市庭古墳・ 平城天皇揚梅陵 
  イチニワ      ヤマモモ

奈良市佐紀町 前方部は市庭
 (撮影日2008/11/26)

第51代平城天皇陵になっている。

現状は円墳状で前方部はない
全長250mの前方後円墳
 後円部径150m・高さ11m、前方部幅160m
 くびれ部の両側に造出し
3段築成
盾形の周濠(一部は二重)がめぐる
葺石あり 埴輪あり
5世紀前半(古墳時代中期)の築造と推定されている。

市庭古墳全景
現在後円部しか残っていないが
左側の植込みのあたりまで
前方部があった。
径100mの円墳と見られていたが、平城宮跡の発掘で、濠の跡が見つかり、
全長250mに達する巨大な前方後円墳であることがわかった。
円筒埴輪と蓋形、家形、動物形の埴輪を伴っていたが、
平城京建設のとき、前方部は宮域内に入ったために破壊されたと考えられている。
現在、平城宮跡の整備されたところに墳丘跡を示す石列がある。

K   ヒシアゲ古墳・磐之媛命陵墓 
        イワノヒメノミコト    

奈良市佐紀町

仁徳天皇の皇后磐之媛命の陵墓とされる。 
全長219mの前方後円墳
 後円部径130m・高さ16.2m 
 前方部幅145m・高さ13.6m、くびれ部幅92m
 三段築成
 前方部東側くびれ部寄りに造出し
盾形周濠が 2重にめぐる
周濠の東側は空濠になっているが、外提の内側に円筒埴輪列が確認されている。
5世紀後半( 中期後半)の築造と推定されている

磐之媛命陵墓
撮影日2008/11/26
周濠の形も百舌鳥古墳群の大仙陵古墳と似ており、
同時期の築造と考えられる
元禄年間の本によると平城天皇陵とされていたが、
明治になって磐之媛命陵に治定された


大正時代(1923〜24年)に土馬、土師器などが採集されている。
1992・93年に内提と外濠の発掘調査、94年には前方部前端と内堤の発掘調査で、
埴輪列などが確認されたほか、
盾形の二重の濠が全周にめぐっていたことも確認された。(現在の周濠は前方部のみ二重)
陵域は南北340m・東西300mに及ぶ。
陪塚は10基(前方後円墳2を含む)とされていて、北から東に4基(円墳2・方墳2)現存している。
後円部北東側に発掘調査で検出された周提・外提と円筒埴輪列・葺石の一部を復元した遺跡公園がある。


復元された円筒埴輪列
撮影日2009/11/7
敷石部分が周堤の位置を示している。
出土した埴輪を参考に埴輪列を一部復元している。

2001年の発掘調査で、円筒埴輪列と葺石の様子が明らかになった。



ヒシアゲ古墳史跡公園
付近の地図
    説明板から





公園の北にあるヒシアゲ古墳陪塚
撮影日2009/11/7
説明板の図をみると
方墳のようだ。



確かに周提外濠の円筒埴輪列や葺石の一部復元がなされているが
あまりにも一部分で地味な史跡公園なので見過ごすところだった。
居合わせた公園そばに住む女性は「ここはただの公園です」と言っていた。

L  コナベ古墳

奈良市法華寺町小那辺
(撮影日2008/11/26)

全長204mの前方後円墳
 後円部径125m・高さ20m 前方部幅129m・高さ17.5m
三段築成の格段に円筒埴輪がめぐる 葺石あり 
くびれ部両側に台形の造出しがある
盾形周濠がある。
中期後半中葉(5世紀初め)の築造と推定されている
市庭古墳とともに、誉田御廟山古墳(応神陵)と墳丘形が近い。


コナベ古墳全景

左 前方部

明治時代初期大阪の造幣局技師として招かれたイギリス人ゴーランドの実測図で海外に紹介された。


左手前から 右奥に
後円部
造出し部
前方部





西側からコナベ古墳の後円部を見る

1696年の松下見林の「前王廟陵記」には墳丘内に石材の露出と円筒埴輪、葺石の記述がある。
1979年の前方部南側の外堤を護岸工事のため事前調査で、円筒埴輪列が確認された。
1997年の自衛隊の基地内の発掘で、埴輪列が出土した。
前方部の西側から後円部にかけて、10基の陪塚が整然と配置されている。

コナベ古墳の西側にある倍塚

周濠の西北端の陪塚大和21号墳が径42mの円墳。
ほかは、すべて1辺が11〜35mの方墳で、7基は陵墓参考地になっている。
参考地以外の陪塚の一つ、大和20号墳の発掘調査で、
コナベ古墳の後円部の中心から伸ばした線上に、それぞれの陪塚の中軸があることなどがわかっているそうだ。

M ウワナベ古墳

奈良市法華寺町宇和那辺
(撮影日2008/11/26)

全長256mの前方後円墳
 後円部径129m・高さ20m 前方部幅127m・高さ20m
 三段築成
 くびれ部西側に造出し
 盾形の周濠 
 円筒埴輪列あり 葺石あり
 中期中葉5世紀中ごろの築造と推定されている。

ウワナベ古墳全景
左(北)後円部


バイパスが古墳の外堤部分を通ることになって、1969年に調査した結果、そこに円筒埴輪列が見つかった。
1973年にも、西側の自衛隊の施設改善のための調査で、やはり外堤上に円筒埴輪列が出ている。

ウワナベ古墳の東側に1基北側に5基の陪塚が存在したが戦後進駐軍の基地造成などにより破壊された。
その中には遺体の痕跡がなく鉄挺872個など1500点以上の大量の鉄製品が出土した
    径30mの円墳・大和6号墳(ウワナベ陵墓参考地陪塚ろ号)もあった。

I 猫塚古墳

瓢箪山南東に猫塚(佐紀町衛門戸)ある。
 全長120mの前方後円墳と推定されているが、現在は竹薮となっている。
 5世紀初頭の築造と推定されている。

 1953年の土砂採取のときに多数の石製腕飾りが発見され、埋葬施設のみの応急調査が行われ、
 破壊された竪穴式石室から石釧・鉄刀・鉄鏃などが発見された。
 径30mの円墳か前方後円墳と推定されたが、
 1979年奈良時代の平城宮の苑地の松林苑の発見に伴って、再調査した結果、
 全長120mほどの前方後円墳で周堀を持つことが分かった。
 1953年発見の埋葬施設は前方部ということになる。
 松林苑造営の際に墳丘を変形、墳丘は築山に、周堀は池に利用されたと推定されている。

Q 神明野(シメノ)古墳

消滅しているが、
市庭古墳の南に神明野(シメノ)古墳があった。
 全長117mの前方後円墳だったが、平城京の造営時に破壊
 その前方部端と濠の上に大極殿が建てられた。
平城京の造営時に、先人の墓を破壊したということは、続日本紀の記録にもある。

D マエ塚

佐紀陵山古墳のすぐ北にマエ塚があったが破壊され、上に住宅が建つ。
 径47〜48mの円墳で、 高さ7m。
 周濠・外提を持つ。
 墳頂には円筒埴輪列がある。
 家形埴輪・形象埴輪も出土。
 粘土槨内に割竹形木棺。(古墳辞典)
  「大和の古墳を語る(臨川書房)」では発掘した河上邦彦さんが箱形木棺と記している。
 銅鏡9・鉄製品150・碧玉製の石釧などが出土。
 破壊
 4世紀後半〜末の築造と推定されている。

平城宮跡
国特別史跡

奈良市
 (撮影日2008/11/25)

平城京で使う酒や酢を造る役所を造酒司という。

造酒司の井戸跡


覆い屋の中に井戸跡が保存されている。

710(天平12)年、文武天皇の遺志を継いだ元明天皇が平城京に遷都。
740年、聖武天皇が、恭仁宮、難波宮、紫香楽宮を転々として、
745年、平城京にもどり、
784(延暦3)年、桓武天皇が長岡京に遷都するまで国の中心だった。


第2次大極殿跡
真ん中の木の後ろ、少し高くなっているところ

第2次大極殿は745年の再遷都後に造営された。
その下に
神明野古墳(全長117mの前方後円墳)が発見された。
平城宮跡は今、広場となっていて、平城京の発掘や復元が進んでいる。
南側には、朱雀門や東院庭園などが復元されているが、造酒司の井戸跡からは見えない。

宝来山古墳・ 垂仁天皇菅原伏見東陵 

奈良市尼ケ辻町西池
 (撮影日2008/11/26)

佐紀盾列古墳群には入らない。南の平地にある。
第11代垂仁天皇菅原伏見東陵とされる。
全長227mの前方後円墳
 後円部径123m・高さ17.3m、前方部幅118m・高さ15.6m
周濠を含めた全長は330mにもなる。

陪塚は6基確認されている。


西側から見た宝来山古墳
江戸時代に盗掘された記録があり、埋葬施設は、竪穴式石室に長持形石棺と見られ、
石棺の身は長さ1.8m、幅、高さは0.9m、「亀之形」の棺蓋は長さ2.1m、幅0.9mとある。

東南から見た宝来山古墳
大和では最も美しい古墳といわれる。
周濠の中に1基の円墳がある。

広い周濠の中に浮かぶ田道間守命の墓

東の堤に、<菓祖田道間守命陵>と記した碑が立っている
この島は、元は陪塚のひとつとして外提にあった。
文久年間に周濠を灌漑用に拡張した結果、
    波間にただようことになったといわれている。
1880年の調査資料の図には描かれていない。

日本書紀垂仁記の田道間守の説話
 田道間守は垂仁天皇の命によって、常世国(蓬莱山)に非時香菓(ときじくのかくのみ・不老不死の木の実・橘)を求めて旅をし、10年後、干し柿のような串刺しの橘を持ちかえった。
 しかし、天皇はすでに崩じていた。天皇が崩じた今では、復命することもできないし、生きて何の益があろうかと天皇の陵に向かって泣き叫んで死んでしまった。


垂仁天皇陵飛地い号
(撮影日2009/11/4)
垂仁天皇陵の北側の道路沿いにある。


奈良市その1 おわり

奈良市・2

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