山陰旅行記 その6
 鳥取県倉吉市・湯梨浜町・鳥取市
撮影日 2007/5/6〜11

島根・鳥取の旅も五日目に入った。
バイキングの朝食をいただき、三朝温泉「三朝ロイヤルホテル」を8時に出発
今日は倉吉市の大きな石室を見て湯梨浜町を通り、鳥取市に入る予定。

三明寺古墳
国史跡

鳥取県倉吉市巌城
撮影日(2009/5/10)

地図




山名寺(曹洞宗)

1359年伯耆国守護山名時氏が
自分の菩提寺として建立した大雄山光孝寺の跡 





三明寺古墳石室

向山中腹に立地
径18m・高さ6mの円墳とされているが
方墳か多角形墳とも考えられる。
山陰最大級の横穴式石室を持つ。


三明寺古墳石室奥壁部分
岩屋延命地蔵尊をまつっている。

横の説明板には
「志津賀石窟とよばれた石室に約300年前からおまつりされていて大変ご利益がある。
 とくに子供の守り神としてその健康交通安全諸災消除・諸縁吉祥を成就させられる。
 お祈りするときは心から手を合わせ次のようにおとなえしよう。
 オン カーカー カビサン  マーエイ ソワカー
 おとなえは三回くり返そう」
とある。


三明寺古墳石室実測図 (説明板から)

石室は全長8.3m
一枚の巨石を立てて奥壁とし
側壁は大きな石の上に切り石をやや内傾させ、
持ち送り的に積んでいる。

玄室は長さ3.7m幅3.2m高さ3.1mで、
奥壁に向かって開くコの字状の石組が存在する。
この石組は蓋がのっていたものと推定され、
九州地方に分布する石屋形の構造に類する。
7世紀初めの築造と推定されている。
石室に切石を用いている点などから、
福庭古墳とともに最も新しい時期のものと考えられる。


石室の近くに置かれた巨石

古墳と関係があるのか?



山名氏伊豆守時氏公の墓

石室の近くにある。
石碑には
「山名氏は上野国山名庄の住人
 建武のころ足利尊氏公に仕えて出世し、
因伯作但丹(因幡・伯耆・美作・但馬・丹波)5ヶ国の守護となり子孫に伝う 
終いには一族合わせて(全国66ヶ国中)11ヶ国を領し世に「六分ノ一殿」と称せる(山名氏清の時代) 
この墓もと市内山田地内にありて大将塚とよばれ墓前を通る際は下馬するを礼とすと伝う
 昭和17年山陰本線の改修にあたり当寺院内に改葬した」
とある。
山名時氏が上野国でうまれ伯耆の守護となり、
その子氏清の時代には「六分ノ一殿」と呼ばれるようになった。

福庭古墳
国史跡

鳥取県倉吉市福庭
撮影日(2009/5/10)

地図

福庭古墳は波波伎神社境内の樹林の中にある。



波波伎神社  (伯耆二宮)

伯耆一宮は倭文神社
湯梨浜町の宮内狐塚古墳の近くにある。
寺の後ろの山に登ると巨木にがっしりと抱え込まれた石室が口を開けている。



木の根に破壊されそうな福庭古墳



径35m・高さ4mの円墳




福庭古墳石室正面

羨道は失われている
玄室入口には観音開きができるような扉がある。




福庭古墳石室奥壁部分
大きな一枚岩

何もない

天井付近に彩色装飾の色彩が残る。

盗掘されていて、棺も副葬品も不明


福庭古墳石室実測図

石室は全長9.5m幅2.2m高さ2.3m
奥壁と側壁に大きな切石を立て一枚石の天井石を置いている。
玄室に入ったところに石を横長に立てているが、
安置場所を区画する石障と考えられている。
玄門の天井石には、
扉を観音開きに開閉するときに都合のよい感じの段がつけられているが、
装飾のためと思われる。
奥壁の一部に赤色顔料が残り、装飾古墳の可能性がある。
7世紀前半の築造と推定されている。  (説明板から)

倉吉市には他にも
上神大将塚古墳(円墳 上神地区)
三度舞大将塚古墳(方墳 大谷茶屋地区)
国分寺古墳(前方後円墳 国府地区)
などがある。

湯梨浜町に入る。

北山古墳
(北山1号墳
)
国史跡

鳥取県湯梨浜町野花(ノキョウ)
撮影日(2009/5/10)

地図

東郷池の南西の北山丘陵の先端部にある。
ふもとに駐車、山を上る。


北山1号墳実測図

全長110mの前方後円墳
 後円部径70m・高さ12m  前方部幅62m・高さ10m
 葺石あり 埴輪あり
 墳丘からは円筒埴輪や朝顔形埴輪のほか盾・短甲・錣・鶏などの形象埴輪も確認されている。

後円部は盗掘されていたが、
 長さ5〜6mの竪穴式石室で、排水溝が発掘調査で確認された。
 竪穴式石室から、管玉や甲の一部が出土。

石室の南2mのところでは箱式石棺(長さ1.7m・幅0.5m・深さ0.5m)がみつかっており、
 銅鏡・勾玉・管玉・棗玉・鉄斧・籠目土器などが出土した。
また竪穴式石室の北3mのところに長さ3m幅1.8mの白砂を敷いた遺構があり、 鉄刀と鶏の埴輪が出土
5世紀前半の築造と推定されている。



左にある階段を上ると北山1号墳がある。


周りは果樹園となっている。
木の間に後円部が見える






階段の横には葺石がごろごろ





なんと!
北山1号墳の後円部の真ん中はくぼんでいる


盗掘されているが、竪穴式石室があったものと推定されてる。

不謹慎にも、主石室の南2mにある箱式石棺の蓋に、
私は腰掛けて一休み。




北山1号墳の箱式石棺は、そのままの状態で存在している。

穴もすこし開いているが、中は埋まっている





後円部から50mほど東側にあるという北山27号墳のあたり

北山27号墳は、径22m・高さ2.8mの円墳
銅鏡が出土したことで知られている
中期初めの築造と推定されている。
板石や川原石の葺石があり
墳頂には鶏や家型の埴輪を並べ、側面は円筒埴輪で飾られていた。


北山1号墳からの景色


東郷池の向こうの山頂に
後で行くハワイ風土記館が小さく見えている。

東郷池の東岸、池に突出する丘陵上に、宮内狐塚古墳がある。
全長100mの前方後円墳で 葺き石を持ち、円筒埴輪をめぐらしていた
直径50mの後円部にはヘギ石積みの竪穴式石室が存在するとみられる。
中期初め(5世紀初め)の築造と推定されている。(未発掘)

    湯梨浜町付近の地図

長瀬高浜遺跡

鳥取県湯梨浜町長瀬
撮影日(2009/5/10)

地図

天神浄化センター建設工事にともなって発見された長瀬高浜遺跡は、
1977〜83年に発掘調査、砂丘の中に埋もれていた弥生時代から中世にかけての村落、古墳などの遺跡が確認された。
竪穴住居174棟・掘立柱建物48棟・古墳41基・大型高床建物・形象埴輪群・玉造工房4棟などが発掘された。
しかし、すべて消滅した。

長瀬高浜1号墳
(長瀬高浜遺跡)

長瀬高浜遺跡で確認された古墳は41基で、中には全長30mの前方後方墳もあった。

この中で代表的な長瀬高浜1号墳
1978年に発掘調査され消滅の予定だったが、
1980年現位置から東500mの地点(天神浄化センターの東南の片隅)に
直径18m・高さ3mに縮めて移築保存された。


移築された長瀬高浜1号墳

 
コンクリートで固められた墳丘で、
大きさもちょっと小さく、
古墳の周りには埴輪ではなくて、
なんと!付近で出土した室町時代の五輪塔がめぐる。

こんなの保存ではない?

長瀬高浜1号墳
 東西26m南北21m・高さ3.5mの円墳
 葺石あり 2段築成  幅4m・深さ1.5mの周溝がある。
 墳丘のほぼ中央に長さ3mの組合式石棺がある。
 5世紀中ごろの築造と推定されている。 


長瀬高浜1号墳・埋葬部の保存

階段の上に石棺が半分くらい露出した状態で
展示されている。


長瀬高浜1号墳の組合式石棺

 側壁の長さ3.6m・蓋石の幅2.3m
石棺は東西に向き、全体が粘土で封じられ
内部は赤色顔料で塗られていた。
被葬者は推定30才前後の女性(身長147〜8cm)女性と見られる。
遺骸は礫床の上に置かれ、頭骨は赤色顔料で真っ赤
枕に三個の高杯
ひたいには竹櫛が一つ張り付き、
右脇には絹帯をまいた立派なさやに収められた長さ1.01m・幅4.8cmの大振りの直刀が副葬されていた。



1号墳の周囲には、
幼児などが葬られた小型箱式石棺や埴輪棺が14個見つかり、
そのうちの4基を展示してある。

形象埴輪群
(長瀬高浜遺跡)

普通は古墳を飾るための埴輪が、この長瀬高浜遺跡では
古墳ではない平地の一辺の長さ8m幅3mのL字状の範囲から大量に出土
家形埴輪5・甲冑形埴輪3・盾形埴輪3・太刀形埴輪1きぬがさ形埴輪10
朝顔形埴輪70・円筒埴輪10
が確認されている。

長瀬高浜遺跡出土埴輪 (湯梨浜町役場前の案内看板から)

古墳ではない場所から出土した謎の埴輪は
役場隣の歴史民族資料館に展示されている。

歴史民族資料館に行ってみたが、
日曜日で、閉館だったのであきらめた。
(平日も職員は常駐していない
 役場に頼んで鍵を開けてもらわなければならない)
 
埴輪群は国重文とされ、古墳時代中期の5世紀ころのものと推定されている。

この他、
大型高床建物跡付近では、小型の鏡や銅剣などが出土、
この建物は神殿的な性格を持つと推定されている。

日本のハワイと言われた羽合町も平成の大合併で「湯梨浜町」となってしまったなあ。

橋津古墳群
馬ノ山古墳群
ともいう
国史跡

鳥取県湯梨浜町橋津
撮影日(2009/5/10)

地図

橋津古墳群は、馬ノ山古墳群とも呼ばれていて、
羽合平野の北端の標高107mの馬ノ山丘陵にあり、5基の前方後円墳と20基の円墳が確認されている。
このうち1〜12号墳、14号墳、21号墳の14基が国指定史跡となる。

古墳群の真ん中にハワイ風土記館があり、 ハワイ・馬ノ山公園となる。
ハワイ風土記館は出入り自由だが、管理人もおらず、エアコンも作動していなくて、むっとした空気に包まれていた。
館内には、手作りの橋津古墳群の資料が展示されている。

古墳は、林の中に埋もれつつある。

橋津9号墳
(橋津古墳群)

直径24m・高さ5mの円墳横穴式石室を持つ


橋津9号墳
 
 
道路沿いにあり、石室天井石が露出している



土地の人は岩屋とよぶ 


墳頂近くに露出した石室

横穴式石室は、
 入口の幅1.4m奥壁は2.4m
 長さは羨道1.5m玄室3m計4.5m


石室はほとんど埋まり
天井石だけが目立つ




上から天井石を見る。

天井石は縦4m・横3.2m・厚さ0.8mの巨石


橋津10号墳
(橋津古墳群)

円墳。 馬ノ山山頂にある。一番高いところにあるので景色がよい。

橋津10号墳全景

埋葬部は箱式石室という

墳頂にはいくつか穴が開いていて穴の中に石材が見えている。

橋津8号墳
(橋津古墳群)

全長41mの前方後円墳
  後円部 直径23m・高さ4.5m 前方部 幅17.5m・長さ15m


橋津8号墳くびれ部付近か

雑木雑草でよくわからない

変形していて埋葬部や出土品は不明

橋津5号墳
(橋津古墳群)

全長38mの前方後円墳
  後円部 径25m   前方部 幅27m
  高さは平坦にならされている



橋津5号墳上り口

「お経塚参道」という石碑がある。



墳頂に経塚がある


橋津5号墳
内部主体は
長さ1.8m・幅1.21mの板石で組まれた箱式棺

竪穴式石室のようにみえる。

副葬品として
須恵器・片切刃の直刀1・
鉄製品(甲か短甲)4
・馬具様のもの2・鏃2・骨1
が出土。


馬ノ山4号墳
橋津4号墳
ともよばれる
(橋津古墳群)

橋津古墳群の主墳。
1956(昭和31)年に偶然箱形石棺と竪穴式石室が発見されて発掘調査された。
標高30mほどの小塚といわれる尾根全体に築かれている。
幕末に鳥取藩のお台場(砲台場)建設のため前方部が削られた。

全長88m(復原長110m)の前方後円墳
 後円部径58m・高さ10m  前方部幅35m高さ6m
 葺石(板状のヘギ石)あり 厚手の円筒埴輪をめぐらしていた
後円部に比べて前方部が低い
4世紀(古墳時代初め)の築造と推定されている。



馬ノ山4号墳全景

中央の林全体が墳丘


発掘から半世紀がたち、墳丘は森の中に埋もれてしまいそう。




馬ノ山4号墳実測図
  番号は確認された主体部
   
内部主体は9基確認されている。

後円部頂に竪穴式石室(1号)と箱形石棺(2号)が主軸に沿って並列
前方部の縁に沿って南側に埴輪円筒棺(3・8号)箱形石棺(4号)が東から並び、
北側には東から箱形石棺(5・6号)埴輪円筒棺(7号)が並んでいる
さらに後円部東側にも埋葬施設(陶棺)(9号)があった

       馬ノ山4号墳・主体部の内容(ハワイ風土記館の展示資料を基に作成)

1号主体 ヘギ石を積み重ねた竪穴式石室(長さ8.5m・幅0.6〜0.85m・高さ0.7〜0.95m)に割竹形木棺
石室の天井石は10枚の板石で構成され
天井・側壁・床とも朱に染まり
床には径1cmほどの丸い川原石が10cmくらいの厚さに敷き詰められている。
石室内にはマキの自然木を二つ割にして舟形にした木棺(長さ2.7m)が納められ
 副葬品とともに頭を東向きにした遺骨が朱のなかにあった。
被葬者は成人女性とみられる。
発掘時にはすでに朽ち果て小臼歯のみが一個残り
 胸から頭の部分には相当量の朱がたまっていた。
副葬品として
 三角縁三神二獣博山炉鏡・画文帯環状乳神獣鏡・方格十二支禽文鏡の輸入鏡をはじめ2面の銅鏡・硬玉製勾玉1・碧玉製管玉17・石釧(いしくしろ)8・車輪石4・鉄剣1・直刀1・鉄斧1・やりがんな1等
が出土した。
2号主体 1号主体の北側に並列
箱形石棺(長さ3.15m・幅0.45〜0.35m・深さ0.33m)
全体を3室に区切り、棺中央は長さ1.97mで板石を使った枕が設けられている。
鏡1・勾玉2・管玉6・鉄刀1が出土
3号主体 埴輪円筒棺(長さ1.61m・口径0.29〜0.33m)で全国に数十個しか例のないもの
両端に板石を立てて閉鎖している。
鏡1が出土
4号主体 箱式棺(長さ1.8m幅0.375〜0.33m深さ0.35m)
中期初めころのもの
5号主体 箱式棺(長さ0.55m・幅0.22m)
幼児を埋葬したものと思われる
6号主体 箱式棺(長さ0.9m・幅0.33m)
7号主体 埴輪円筒型棺(長さ0.94m・口径0.44〜0.3m)
子供を埋葬したと思われる
8号主体 埴輪円筒型棺(で長さ0.89m・口径0.4〜0.3m)
9号主体  陶棺 




橋津古墳群配置図
 濃いピンクで塗りつぶされている古墳は国指定史跡



橋津古墳群のまとめ (ハワイ風土記館の展示資料を基に作成)

号墳

大きさ

特徴

時期

1号墳

円墳
 群中第3位の円墳

径33m〜30m
  高さ9m(現7m)

墳頂に忠魂碑が立つ。
内部主体も取り外され石棺の一部が残されている。

中期

2号墳

前方後円墳
 群中第2の大型前方後円墳

全長68m
 後円部 径30m・高さ5m
 前方部 長さ38m・幅22m・高さ2.5m

瓢箪塚
未掘

中期
3号墳

円墳

径30〜15m
 高さ4mの楕円墳
もとは円墳で
幕末のお台場築造の際、
北半分が切り取られたといわれている

讃岐家の墓地

後期

4号墳

前方後円墳

主墳

全長88m(復原長110m)
  後円部 径58m・高さ10m
  前方部 幅35m・高さ6m

昭和312月発掘

前期
4世紀

5号墳

前方後円墳

全長38m
  後円部 径25m
  前方部 幅27m
  高さは平坦に切りならされている

お経塚とよばれる
内部主体は
箱式棺で竪穴式石室のようにみえる。

後期

6号墳

円墳

径19m(東西23m・南北14m)
  高さ2.5m(東2.5m北1.5mの円墳
  後期

7号墳

円墳

直径16m
  高さ 東側2m その他3m 

  

後期

8号墳

前方後円墳

全長41m
  後円部 直径23m・高さ4.5m 
  前方部 幅17.5m・長さ15m

変形していて埋葬部や出土品は不明

中期?

9号墳

円墳

直径24m
  高さ5m
  横穴式石室を持つ

土地の人は岩屋とよぶ 

後期

10号墳

円墳

直径34m・高さ5m 

馬ノ山山頂にある
箱式石室

前期

11号墳

前方後円墳

全長30m 後円部 径12m・高さ1.5m

変形していて内部主体や副葬品は不明

後期

12号墳

円墳

径35m  高さ9m

多少変形

中期
13号墳 円墳 直径25m  中期
14号墳 円墳
群中最大の円墳
径45m  高さ6m 元は8m 内部主体や副葬品は不明 未発掘 中期
15号墳 円墳   横穴式石室? 後期
16号墳 円墳   横穴式石室? 後期
17号墳 円墳   漁師の色見台 後期
18号墳 円墳   石材のみ残る 箱式石棺 後期
19号墳 円墳   横穴式石室? 後期
20号墳 円墳   横穴式石室 後期
21号墳 円墳 径30m  高さ3.5m 墓地や畑となっている 後期
22号墳 円墳   トウゲン山 後期
23号墳 円墳      
24号墳 円墳      
25号墳 円墳      


青谷上寺地遺跡(展示館)
国史跡

鳥取県鳥取市青谷町青谷
撮影日(2009/5/10)

地図

現在は埋め戻されている青谷上寺地遺跡は、日本では唯一の「弥生人の脳」が出土した。
その他、保存状態のよい品々が多く出土。
それらを紹介するために青谷上寺地遺跡展示館造られている。

「地下の弥生博物館」とよばれ
膨大な量の土器や石器のほか、通常の遺跡では残ることの少ない木器・骨角器・獣骨等の遺物、
鉄器・青銅器などの金属器が大量に出土し
日本最古の弥生人の脳や100人分以上の人骨と10人分以上の傷痕の残る人骨なども出土。
弥生時代の情報を私たちに伝えてくれている。

きれいな館内で、豊富な資料が手に入るのに入館料は無料。
長瀬高浜遺跡近くの歴史民族資料館が閉館していたことを思い、この違いは何なのだろうと考えてしまった。

お昼をすきだので食事をと、お店を探すが、見つからず
昔話「因幡のしろうさぎ」の白兎海岸で、昼食をとることにする。

山陰旅行記・その7  (松江市・岩美町) につづく

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