吉備路へ・・・・    その5  吉備の中山から        見学日2012/3/28〜31

2012/3/30 吉備路三日目。朝一番に、楯築遺跡の見学を終え・・・・吉備の中山へ・・・。
午前9時すぎ、「尾上車山まで0.1km」の案内板をみつける。
道路わきに駐車。尾上車山をめざす。

岡山市西部の地図

尾上車山古墳
国史跡
岡山市北区尾上
撮影日2012/3/30

尾上車山古墳(別名・ぎりぎり山古墳)は、墳長約135mの前方後円墳
後円部径約80m、後円部高7 m、前方部長約60m
三段築成 葺石あり 埴輪あり
前方部は低く細長い柄鏡形であるが、前端部がわずかに開くバチ形になるという指摘もある。

後円部北側の鉄塔に接する部分は、墳丘外にもかかわらず葺石が認められる。
おそらく、一辺20mほどの造出しになるものと思われる。

埋葬施設は不明
4世紀中ごろの築造と推定されている。中山茶臼山古墳に続いて築造されたと考えられている。
現在、南方には平野が広がっているが、
   この古墳が築造された当時は、山裾まで海が迫っており、内海に面した大型前方後円墳だった。
        (説明板・岡山市デジタルミュージアムから)


 尾上車山古墳   左奥前方部  右 後円部

 尾上車山古墳 後円部から前方部を見る。

 尾上車山古墳 前方部から後円部を見る。

矢藤治山古墳も行きたいと思ったが、道路から460m下らないと着かないという案内板を見て、あきらめる。

矢藤治山古墳は、全長35mの前方後円墳。
 後円部から礫槨と木棺の痕跡を検出、鏡勾玉が砕かれ散乱した状態で出土、
 特殊器台の出土、前方部がばち形に開くなど最古級の前方後円墳の特徴をもつ。
 黒住教駐車場片隅に案内板、そこから整備された山道を下って行く。

古代吉備文化財センター 岡山市北区西花尻
撮影日2012/3/30

9時.30分 着
古代吉備文化財センターでは、「こうもり塚とその周辺」という企画展が開催されていた。



こうもり塚古墳の陶棺の蓋の破片

陶棺は古墳時代後期に美作地方を中心に使われた焼き物の棺。

こうもり塚古墳には、
 石棺に葬られた人物以外にもう1人陶棺に埋葬された人物がいた!






陶棺

赤磐市弥上古墳出土
岡山県でみつかった陶棺は、全国出土数の約8割を占めている。






吉備中山周辺の古墳の場所 (センター内パネルから)

1・中山茶臼山古墳  2・矢藤治山弥生墳丘墓  3・尾上車山古墳
4・観音古墳 5・奥谷古墳群  6・山神下古墳群  7・向山古墳群
8・三ぐろ古墳群  9・八幡宮裏山古墳  10・石舟古墳群
11・石舟塚古墳  12・北浦古墳群  13・成親供養塔下古墳
14・はなぐり塚古墳  15・真城寺裏山古墳  

A〜E・竜山石製石棺材

赤丸は横穴式石室



中山茶臼山古墳 岡山市北区吉備津
撮影日2012/3/30

中山茶臼山古墳全長120mの前方後円墳  後円部径80m。
吉備津彦命の墓として宮内庁が管理している。
埴輪あり
4世紀の築造と推定されている。
採集されている埴輪は、最も古い埴輪である都月型とする意見と、後続する型式の埴輪であるという意見がある。
墳丘は古墳時代前期中頃の奈良県天理市行燈山古墳(伝崇神陵)の2分の1相似形という意見もある。
   (岡山市デジタルミュージアムから)
周囲の柵越しに墳丘を見学できる。


 柵越しに見る中山茶臼山古墳墳丘  (ぼんや〜りしか見えない!)
 左・前方部   右・後円部    右端の赤は、穴観音


吉備津彦命の墓 御拝所


ふもとから、長ーい階段を上った所にあるが、
別のルートでは、車で近くまで行けるとか・・・。


穴観音  背後は中山茶臼山古墳後円部

原始的な祭祀遺跡で、

 中山茶臼山古墳の後円部の一角にあるが、
 茶臼山古墳の築造前から
この位置にあったのではないかと 考えられている。


主石には仏像が掘られ、
 側面には径20cmほどの穴が穿たれていたが、
  分からなくなるほど風化している。
昔からの言い伝えで、
 側面の穴に耳をあてると
 観音様のお声が聞こえるという俗信仰があって、
 縁日には参拝者も多いという。

 (現地 一宮地域活性化推進委員会の説明板から)

吉備津神社 岡山市北区吉備津
撮影日2012/3/30

10時20分 着


吉備津神社

祭神は大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)が主神
異母弟の若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと)、
その子吉備武彦命など、一族の神々を祀る。
吉備国総鎮護の神社として創建され、『延喜式』神名帳に名神大社として登載されている。
備中国一宮、また吉備国総鎮守。旧官幣中社。
現在の本殿は棟札によって1425年(応永32)の再建ということが判明している。
境内の南北に構える随神門は国の重文。御釜殿で行われる釜鳴神事は有名。



 吉備津神社  左 本殿     右 拝殿
 本殿・拝殿は1425年再建、棟札2枚とともに国宝に指定されている。

 本殿から本宮に至る400m余の回廊は県重文。
 傾斜する自然の地形にあわせて造られている。

 拝殿入口

吉備が4カ国に分かれた際に吉備津神社が備中の「吉備津神社(岡山市吉備津)」に。
備前には「吉備津彦神社(岡山市一宮)」が、備後には「吉備津神社(広島県福山市新宮町)」が建立された。

それぞれの国の守り神、一宮となっている。あと一つは美作の国。

吉備津彦神社 岡山市北区一宮
撮影日2012/3/30

10時41分   吉備津彦神社 着 

吉備津彦神社は備前の一宮。 備前の大社(もと国幣小社) 。
祭神は大吉備津彦命。
吉備国が分国されたとき、備前国の一宮として創祀)された。
平安時代、1276年(建治2)院宣によって遷宮が行われ、足利義満により神宮寺本尊が奉祀された記録がある。
現在の本殿は1697年に完成したもので、県文化財となっている。
1930年(昭和5)本殿以外が焼失、その後復興された。


中央・随神門

左右は、安政の大石灯籠
この大石灯籠は、6段造り、高さは11m、
基壇は8畳敷の広さがある。

文政13年と安政4年の2度にわたり寄進を募り奉納された。
寄付者名は約16170人、5676両が集まったという。


吉備津彦神社
左手前・拝殿

右奥・本殿



吉備津彦神社本殿

元禄時代(1697年)の建立で県指定重文となっている。

1930(昭和5)年に火災にあっていて、再建されているけれども、全体に貫禄がない感じがするのが残念だ。

小盛山古墳へ行こうとしたら、大きな鳥居が・・・・・・・



最上稲荷神社の大鳥居

日本三大稲荷の一つである最上稲荷のシンボルで、昭和47年(1972)に建立された。
高さ27.5m(全国で4位)、柱の直径4.6m、総重量2800tの規模を誇る。



小盛山古墳 岡山市北区平山
撮影日2012/3/30

11時17分   小盛山古墳 着

最上稲荷の南 約800mの平山団地の北端に保存されている。
墳長108m、円丘部径95m・高さ14mの造出し付円墳
周囲には周濠の名残りとされる溜め池が4つあるが、後世につくられたもので周濠でない可能性も高い。
円丘部は三段築成 造出し部は二段築成
葺石あり、埴輪あり

造出し前端部の葺石は石垣状で残りも良い。
4世紀後半の築造と推定されている。
円墳としては、全国で第2位の規模である。
古墳時代前期だけに限定すると、第1位の規模となる。


 小盛山古墳 遠景   雑木林となる。

 小盛山古墳  周堤のようになっている所もある。

 小盛山古墳  ため池は周壕ではないのか?

 小盛山古墳  周壕跡に見えるところもある。

小盛山古墳のあるところは「造り山」という地名が付いていているようだ。

岡山市西部の地図

妙義山古墳 岡山市北区平山
撮影日2012/3/30

小盛山古墳の西600mくらいにある池の西側の小高い丘の頂上にある。
妙義山古墳は 径42m・高さ7mの円墳
2〜3段築成、高さは約7m




妙義山古墳

きれいになっていて、
いかにも円墳という感じだが、詳しい資料が見あたらない。



坂古田堂山古墳
県史跡
岡山市北区平山
撮影日2012/3/30

小盛山古墳の南西600mくらいにある。
坂古田堂山古墳は 墳長150 mの前方後円墳 後円部径88m・高さ12m、前方部長70m
二段築成 埴輪や葺石は不明 須恵器が採集されている。


後円部の背後には、かつては小形の古墳が6基あり、埴輪円筒棺なども発掘されている。


写真中央の白いビニールハウスの上に
坂古田堂山古墳の前方部先端が低く見えているのだが・・・

見えないなぁ・・・

前方部は高松農業高校の果樹園、
後円部は雑木林となっている。



高松城跡
国史跡
岡山市北区平山
撮影日2012/3/30

12時ちょうどに 高松城跡 着

備前国の平野の中心に築かれ、天正10(1582)年の中国役の主戦場になった城跡。

 高松城跡
  沼沢地に望む平城で、石垣を築かず土壇だけで築成された土城。
  城の周辺には沼沢が天然の外堀をなしていた。
  方形(一辺約50m)の土壇(本丸)を中核にして、濠を隔てて同規模の二の丸が南に並び、
  さらに三の丸と家中屋敷とが、コの字状に背後を囲む単純な形態。
  本丸跡は江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。(説明板から)


中国役とは・・・


 全国統一を目指した小田信長は毛利方と対峙した。 
 毛利方は備中境に境目七城
(高松城・宮地山城・冠山城・加茂城・日幡城・庭瀬城・松島城)を築き備えた。織田軍の先鋒羽柴秀吉は、天正10年に三万の軍勢をもって侵攻し、境目の城を次々に攻略した。

 最後に攻めあぐねていた高松城の周囲に約2.6kmの堤防を12日間で築き、折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行した。

 籠城一ケ月余を経て城兵が飢餓に陥った頃、本能寺の変が起きた。

 秀吉は毛利との調和を急ぎ、高松城主清水宗治の切腹と開城を条件に休戦を成立させ、ついに高松城を落城させた。

(説明板から)

高松城跡も、元は古墳だったのではないかという説もあるそうだ。



高松城跡から見た鬼ノ城

行きたかったけれども・・・・

高松城資料館に詰めている男性は、
「鬼ノ城の主・温羅は悪者ではなく、
地元の人たちを助けた恩人である。」と言っていた。

最近はそういう考え方になってきているようだ。


 
温羅伝説・・・ 吉備地方に残る、桃太郎話のモチーフとなったといわれる伝説。

古代吉備地方には百済の王子と称する温羅(「うら」または「おんら」)という鬼が住んでおり、
鬼ノ城
を拠点にこの地方を支配し悪行を行っていた。

 吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたため、これを救うために崇神天皇は、孝霊天皇の子で四道将軍の一人・吉備津彦命を派遣した。

 命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた。温羅に対して矢を1本ずつ射たが岩に呑み込まれた。
そこで命は
2本同時に射て温羅の左眼を射抜いた。温羅が雉に化けて逃げたので命は鷹に化けて追った。
更に温羅は鯉に身を変えて逃げたので吉備津彦は鵜に変化してついに温羅を捕らえた。

それぞれの伝説の地に矢喰神社、温羅の眼の血が流れた血吸川、鯉喰神社がある。

温羅は製鉄技術をもたらし吉備を治めた技術者であり豪族ではないかとされる。
また、血吸川の川の赤さは鉄分によるものと考えられる。

吉備地方は古くから鉄の産地として知られ「真金吹く吉備」と呼ばれていた。
実際、鬼ノ城の東麓には日本最古級の製鉄遺跡がある。

 


神宮寺山古墳
国史跡
岡山市北区中井町
撮影日2012/3/30

午後1時 着
御野小学校の北隣にある。


神宮寺山古墳実測図
   (備陽史探訪の会H14の資料から)


神宮寺山古墳は、全長約150 mの前方後円墳
後円部径70m・高さ約13m 前方部長75m・高さ7m
後円部三段築成、前方部二段築成。
北側くびれ部に造出のような斜面がある。
埴輪あり
 周壕あり


内部主体は竪穴式石室とみられている。
それとは別に、副葬品だけをおさめた小竪穴式石室(内法長さ1.5m・幅0.5〜0.6m・高さ0.9m)は、
 1961(昭和36)年に盗掘され、 刀や剣などの武器や農具など100を超える鉄器が出土。
前方部からも刀や甲冑、槍・鉾の破片が出土したと伝えられ、前方部にも埋葬があった可能性がある。
後円部は天計神社、前方部は墓地となっており、墳丘はかなり変形している。
後円部墳頂の神社建物脇に竪穴式石室の天井石の一部が露出している。

3世紀後半〜4世紀の築造と推定されている。
佐紀陵山古墳の4分の3の大きさといわれている。
         (説明板・岡山市デジタルミュージアムから)


 神宮寺山古墳
 石段を上がると、後円部頂の社殿にいたる。

 

 神宮寺山古墳 後円部から前方部脇を見る
  周壕があったと感じられる。

 神宮寺山古墳 後円部から前方部を見る
  緑の向こうまで続く

 神宮寺山古墳 前方部先端は墓地となっている。
  長さ75mの前方部がある。

 神宮寺山古墳 前方部から後円部を見る
  露出した天井石の確認忘れた、残念!

 神宮寺山古墳 後円部ふもとから墳頂を見上げる。
  3段築成の様子

中井町のスーパーに駐車、お礼にお弁当を買い、そのまま徒歩で神宮寺山古墳に向かい、
神宮寺山古墳の後円部で昼食。
神宮寺山古墳の周辺は道が狭く、そばまで自動車で行くのはかなりきつい。

唐人塚古墳 岡山市中区賞田
撮影日2012/3/30

午後1時40分 着

唐人塚古墳は、「史跡賞田廃寺跡」の西の小さな尾根の反対側にある。


史跡賞田廃寺跡

岡山県で最古の古代寺院の一つ。
7世紀中ごろの在地豪族の上道臣により造営されたと考えられている。
おなじ上道臣の墓といわれるのが唐人塚古墳。


唐人塚古墳は、龍の口山の西南の麓にあり、墳丘は明確ではない。(墳丘上が道路となっていた!)
南に開口する両袖式横穴式石室は全長8.9
玄室長さ5.1m・同幅2.2〜2.9m 羨道長さ3.7m・同幅2.9m。
巨石を真っすく上に積み上げている。
竜山石製の長さ225cm・幅120cmの家形石棺の身が残る

こうもり塚古墳、箭田大塚古墳、牟佐大塚古墳の吉備三大巨石墳と同様に、巨石を用いた数少ない古墳である。
そのうちでもこの石材は最も整美であり、県下の巨石墳のなかでは最後につくられたと考えられている。
県下における同種の石材の石棺のうちでは最も大きい。


 唐人塚古墳 墳丘の上は平らにならされている。
  道路だったからかな。

 唐人塚古墳 石室入口

 唐人塚古墳 石室内部
  石棺には 水がなみなみと満たされている。

 唐人塚古墳 石室内部から外を見る。

横にある賞田廃寺跡には説明板なども整備され、きれいになっているが、唐人塚古墳は、説明板もなく・・・・・・。

牟佐大塚古墳
国史跡
岡山市北区牟佐
撮影日2012/3/30

午後2時10分 着

牟佐大塚古墳は、径30m・高さ8.5mの円墳。吉備三大巨石墳の一つ。
南に開口する両袖式横穴式石室全長18m、
 玄室長6m、幅2.8m、高さ3.2m、羨道の長さ12m羨道幅2.4m、高さ2.1m
 花崗岩の巨石を使用し、羨道が玄室の約2陪の長さがあり、入口に向かってやや開く形状に特徴がある。
 玄室内には、井原市白山で産出する浪形石(貝殻凝灰岩)製の刳抜式家形石棺が残る。
 石棺は、復元長さ2.88m・幅1.6m・高さ1.5m。

6世紀末の築造と推定されている。

石室入口には、
「ヒカリモが生息しています。水たまりを踏まないよう見学してください」
と書かれた立て札があるが・・・・踏まないと中に入れない・・・困った!


 牟佐大塚古墳墳丘 前方後円墳や方墳という
  見方もある
が、現況は円墳。

  牟佐大塚古墳 
 前庭部があるような感じ・・・・・。 

 牟佐大塚古墳 開口部
 

 牟佐大塚古墳 羨道から玄室を見る
  床の黄緑色が「ヒカリモ」???

 牟佐大塚古墳 玄室

 牟佐大塚古墳 石棺
  蓋には退化した縄掛け突起が4個ついている。

 牟佐大塚古墳 玄室から外を見る

  牟佐大塚古墳 石室内から外を見る

「ヒカリモ」というのは、初夏から秋に光るということだが、3月末のこと・・・・
黄緑のものが黄金色に光るのかどうなのか、よくわからない。


両宮山古墳へ向かう。・・・・・吉備路 その6へつづく

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